第3話婚約者


 もちろん、イケメンと夜をともにするようなことだって何度かあった。けれど、それが未来を見据えて付き合っていくことの出来るような相手であるか、という話は全く別の問題で、そういう相手を探し出すのは容易ではなかった。

 そうしてだましだまし数か月にわたって婚活を続けた結果、ようやっと悪くない顔をした3歳年上の大卒警察官と付き合うことになった。

 公務員としての安定性はもちろんだけれど、彼の男らしく大柄な身体つきは連れ添って歩くのに名状し難い誇らしさを与えてくれた。彼は端正な顔立ちをしていたけれど、如何せん堅物なところがあって女の扱いが下手くそだった。それはときに私をイラつかせたけれど、裏を返せば他の女に乗り換えられる心配が少ないということの証左でもあった。

 何より婚活という百鬼夜行から解放され、「収まるべきところに収まっている。」という居心地の良さは、どうしようもなく私の心を穏やかにしていった。

 すると不思議なことにTwitterで呟くべき内容が思いつかなくなり、自然とスマホに熱中する時間が減っていった。

 そうして捻出した時間で、今までなあなあでお茶を濁してきた仕事を覚える努力をするようになり、職場の考査も上がった。料理教室に通うようになると、思っていたより自分には料理のセンスがあるらしいことが判った。きっと自分は良い奥さんになれるだろうと思った。

 思い描いた未来図に向け、歯車が万事しっかりと噛み合って転回し、人生が前進していく。そのことに、否応なく悦びを感じていた。

 そして2年の年月が流れたある日、母親にしつこくせっつかれ、致し方なく彼を両親に紹介した。彼と両親はまるで元から家族だったみたいにすぐ打ち解けていて、安堵を覚えた。

 母親が、「至らないところもあると思うけど、莉佐のこと頼むわね。」などと気の早いことを彼に言って困惑させていた。けれど、その表情を見れば満更でもないことは明らかだった。

 そうして徐々に、言外に結婚を意識していることを互いに理解し始めていた頃、彼の転勤が決まった。横浜にある警察署から小田原にある警察署への県内異動ではあったけれど、当時私の住んでいた川崎の実家からは電車で片道2時間以上かかる道程だった。それは、これまでのように気軽に会ったりすることができなくなるということを意味していた。

「ねえ、これから寂しくなっちゃうね。」

 ある夜、彼の胸にしな垂れかかりながら私が口にすると、彼が意を決したように言った。

「じゃあさ、これを機に同棲しようよ。」

 それは否応なくプロポーズの言葉だった。私はずっとその言葉が出てくるのを待っていたし、予感もしていたから、もちろん答えだって用意していた。

「え、そんなに即答していいの?! 」

 などといって、提案した彼の方が困惑していた。あんなにそわそわしていたクセに、何も勘づかれていないと思っているだなんて本当に可愛い人だと思った。

 小田原に何度か通い、同棲するのにちょうどいい大きさの2LDKを契約することにした。

「今のマンションって、すごいんだね。こんな最新鋭の設備が整っているなんて、何かの基地みたいだ。浦島太郎になった気分だよ。」

 彼は劣悪な警察の独身寮から脱出できることに浮き足立っていて、立地以外はほとんど私の希望のままだった。

 当然私は仕事を辞めなければいけなかったのだけれど、彼と歩いて行く未来に比較すれば検討の余地なんて無かった。それに、ちょうど仕事にも飽きてきたところだった。多少フライングではあるけれど、職場に寿退職をする旨を伝えた。

 職場なんて、力まず仕事をして単に時間をやり過ごすだけの場所だと思っていたし、大して深い人付き合いもなかった。だから、「へえ、そうなんだ。」くらいのリアクションを期待していたのだけれど、思っていたよりずっと沢山の人が大袈裟に祝福してくれた。

 自分はそれだけの成果を揚げたのだと思った。平々凡々の人生を歩んで来たけれど、やっと一角の人物として社会に承認されたような気がして、誇らしい気持ちになった。

 飲み会で半ばセクハラ気味に投げかけられていた、いつ結婚するんだとか、彼氏はいるのかだとか、隣の部署にいるアイツなんてどうだなんとか、お前の理想は高すぎるんじゃないかとか、自分の相場を自覚してるのかどうなんだとか、そういう下卑た話題から永久に解放されるのだと思うと心底ホッとした。

 とはいえ何ごともトントン拍子というわけにはいかない。当時、職場が繁忙期だったこともあって3か月退職を留保されることになり、彼だけ先に小田原での生活を始めることになった。

「先に行って、地盤固めて待ってるからね。」

「私がいないからってあんまり部屋汚くしてたらダメだよ。」

 長い人生に比べたら、3か月くらい大した問題ではない。

 仕事を辞めるまでの日数を指折り数えていると、大して好きじゃなかった退屈な事務も、職場のどうでもいい人間関係も、思っていたより本当はずっと悪いものじゃなかったのではないかとさえ感じるようになった。

 これまでは単に話しかけられることさえ不愉快だった上司から、「良いなぁ、後少しで刑期満了で。俺なんて終身刑だよ? 」などと粘着質に絡まれるのも、むしろ小気味良い気さえした。

 もちろん、「小田原に行ったら、また仕事探さないとな。」という漠然とした不安はあった。けれど、それもいわば期待の裏返しである。

 これからは財布が一つになるのだから、食べていくために嫌々働く必要はない。多少給料が少なくなったって、好きな仕事をして暮らしていけばいいのだ。そう考えると、選択肢は無限にあるようにさえ思われた。

 

 私の想像力が足りていなくて、何もかも良い方に皮算用していただけだったのだと気付いたのは、彼の転勤から2か月も経った頃だった。

 いつものように職場で何の役に立つのかもよく分からないエクセルの帳票に数字を打ち込んでいると、彼からLINEの通知が来た。トイレで内容を確認すると一言、「別れて欲しい。」とだけあった。

 思わず私は電話を折り返したけれど、彼はそれを取らなかった。

 頭の中が真っ白になってしまい、自席で帳票入力の作業に戻ってからも、自分が一体何をしているのかよく分からなかった。

「莉佐ちゃん、大丈夫? 顔、真っ白になってるよ。」

 向かいの席に座るお局さんから声を掛けられ、やっと正気が戻った。

「すみません、急に体調が悪くなってきたので早退させてください。」

 上司に告げ、駅まで走った。


 小田原に着いた頃には、もう夕方になっていた。新居となるマンションに駆け足で向かう道すがら、下校する子どもたちの笑う声が耳に響いて不快だった。「何こっち見てんだよ、クソガキ。」と叫びたかったが、さすがにそこまで常軌を逸脱するわけにはいかなかった。

 チャイムを鳴らすと、驚いた顔をして彼が顔を覗かせた。そのことが余計に私の怒りを駆り立てた。

 親の顔まで見ておいて、同棲する約束までして、急にあんなLINEを送りつけきて、電話も取らなくて、それで私がここに現れることの一体何がそんなに意外だっていうんだ。良い度胸してる。他人の心をこれだけめちゃくちゃに掻き乱しておいて、それで市井の平和を守っていますだなんて言わせない。

 部屋の中に押し入って、ベッドの上に彼を座らせた。カーテンの隙間から夕陽が差し込んで、部屋を橙に照らしていた。

「別れるなんて絶対イヤ。私、もう職場に仕事辞めますって伝えてるんだよ? これからどうすんのよ、何考えてんの。」

 私は食卓イスを持ってきて、彼の正面に座って向かい合い睨みつけた。警察のことはよくわからないけれど、彼もいつもはこうして容疑者と向かい合っているのだろうか。などと余計なことを考えていた。どこか遠くから聞き覚えの無い音楽が流れてきて、これがこの町の夕刻を知らせるチャイムなのだと思った。

「莉佐のことをこれから養っていく自信がなくなっちゃったんだ。今は自分のことで精一杯で、結婚とか、今はもう考えられない。今日も仕事を休んでしまった。」

 彼は重度のうつを患っていた。住む場所が変われば、その土地にはその土地のルールがある。新しい環境に溶け込むことができず、先輩たちからのマチズモな可愛がりに堪えることができなかったらしい。

 それでも、こんなに逞しい肉体を持つ成人男性がわずか2か月程度のことで心が折れてしまうだなんてあり得るのだろうか。俄かに信じることが出来なかった。

 散々喚き散らして、罵倒して、何度も食い下がった。けれど彼の意志は頑なで、どうにもならなかった。

「申し訳ない、本当に申し訳ない。」

 大柄で日に焼けた身体を縮こまらせ、ベッドに頭を擦り付けている彼を見ていると、怒りが転じて哀れな気持ちになってきた。

 それに、それにきっと、私も悪かったんだと思った。

 この2か月の間、気持ちが浮ついていた私は、彼が徐々に憔悴していっていることを感じとることが出来なかった。土日にデートするだけだったけれど、何度も顔を合わせる機会はあったのに、その気配さえ察知することができなかったのだ。

 このまま彼と一緒にいたとしても、きっとこの先、何度もこういうシーンがやって来るんだろう。

 その度に私は何一つ気付くことが出来なくて、気付いたときには何もかも遅くて、私はこうして彼を責め立てることしかできないのだろう。

 そうして何度も無理矢理やり直したって、修復不能になるまで彼を叩きのめしたその先には多分、何も残らない。

 だからこの関係は、もうどうしようもないくらい終わってしまったんだと悟った。

 気が付くと、部屋は真っ暗になっていた。

「もういいよ。今までありがと。」

 ベッドの上で頭を下げたまま身動き一つしようとしない彼を残し、部屋の明かりをつけて、外へ出た。

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