第2話愚痴

 私は、人付き合いが得意ではない。言動が普通の人よりちょっと刺々しくて、実際ある程度は狭量な性格をしていることを自覚している。

 歳を経るにしたがって相応の嫋やかさと色気を身に纏うような女もいるけれど、いたずらに老いていくだけの女もいる。私には、良い歳のとり方なんて望むべくもない。

 だから出来るだけ若く美しく、自分の価値が高いうちに、市場に残っている「まともな男。」を捕まえて結婚し、人生を上がりたいと思っていた。つまりそれは「今。」まさに行動すべきということに他ならない。

 母親からは、「まだ早いんじゃない? 少しは独身を楽しんだらどうなのよ。お母さんの若い頃はねえ。」などと言われた。母親が若い頃どうだったのか、滔滔と語っていたエピソードの大半を覚えていない。

 けれど母親が何を語ろうが関係ない。どうせ陳腐化した価値観だからだ。生きていくのに結婚が必須だった時代ならば、若いうちに遊んでいたって嫁の貰い手はあっただろう。現代においては、生きていくのに結婚は必須とまではいえない。誰もがより良い相手を選好し、常に下から突き上げてくる若い女と比較され続けなければいけない。結婚を望むのなら、一刻も早く動かなければいけないのだ。

何処かの服飾で成り上がった企業の社長だって、こないだ何かのインタビューで「先手必勝! 」みたいなことを答えていた。

 

 それに何より女同士の「彼氏じゃんけん」にうんざりしていた。

 彼氏の年収がいくらで、大学がどこで、顔がイケメンで、実家が太くて、いかに綺麗な夜景が見える高層階のレストランに連れて行ってくれるくらい自分を大事にしているのか。そういう自分自身の本来的な価値とはおよそ関係の無い事柄で競い合い、優越感や劣等感を覚えたりする。

 多くの女たちもきっと、このマウントの取り合いに辟易しているはずだ。けれど、私たちがこのステージにいる限り、私たちは否応なくプレイヤーとしての振る舞いを求められる。そういう不毛な営みは学生時代でお腹いっぱいになっていたから、さっさと次のライフステージに進みたかった。

 しかし大学時代から付き合っていた男は、ある日突然お笑い芸人を目指すだなんて言い出して会社を辞めてしまった。お笑い芸人になりたいなんて本心から思っていたわけではないはずだ。社会の余りの厳しさに堪えかね遁走したことは誰が見ても明らかだった。

 彼の話が抜群に面白いところは大好きだったけれど、少しばかり褒め称え過ぎて調子に乗せてしまったのかもしれない。私は、自分の人生まで冗談で終わらせるつもりはさらさらなかった。

「そんなのおかしいよ、何があっても一緒だって言っていたじゃないか! 」

 私が別れを告げると彼は無様に縋りつき、突如として不幸に見舞われた悲劇の主人公たる自分、に陶酔しきった超長文のLINEを連投してくるようになった。堂々としていればセフレとして付き合っても良いと思っていたけれど、厄介になってきたので彼のLINEアカウントはブロックした。

 

 それからしばらくして婚活を始めた。仕事終わり、婚活パーティや合コンに毎日のように顔を出し、相手を吟味していった。

 学生時代、交際するのに苦労したことはほとんどない。自分の価値さえ見誤らないのなら、大半の男は落とすことができた。

 平均よりずっと顔は良いしスタイルだって悪くはないし、しかも若い。客観的に見て条件は悪くないはずだ。

 別に、共働きで構わない。専業主婦のリスクだって判り切っているし、女を働かせずにいられるような甲斐性のある男と容易く結ばれるなんて思い込むほど夢見がちではない。

だから婚活なんてすぐに終わるものなのだと高を括っていた。けれどそうはならなかった。

男たちが、余りにも雑魚すぎたのだ。

 婚活市場にいる男たちは、学歴も年収も容姿も何もかも多種多様で、夕方のニュースで現代社会の抱える病理を語られるときにのみ目にするような「本当の日本人男性の姿。」そのものだった。

 サークルで、大講堂の教室で、バイトで、多くの男たちが私に言い寄って来た。けれど全く歯牙にも掛けることが出来ないほど見込みのない男はそう多くはなかった。

 今思えば学生時代、私の周りには結界があったのだ。

 女友だちや男友だちで造られた人垣と、そこから放たれる空気感によって醸成された結界。それはある種の同質性を持つ者でなければ突破することの難しい「ふるい。」だ。私に声を掛けることができる時点で、既に彼らは相応の選抜を潜り抜けた男たちだったのだ。ということに、婚活を始めてやっと気付かされた。

 今まで私の生活圏内に存在していなかった、小学校や中学校でオサラバしたはずの有象無象。そういうものが平気で私を恋愛対象と認識して声を掛けて来ることに、少なからず屈辱と嫌悪を覚えた。


 *


「あんたは愚痴が多すぎるのよね。」

 母親からそう愚痴をこぼされながら育った。ずっと「あんたの血だろ! 」と思っていたが、口に出したことはない。そんなことを言おうものなら、コールタールみたいに粘着質な愚痴の波状攻撃を数日単位で浴びせかけられることが明らかだったからだ。

 しかし実際のところ、私が愚痴っぽいのは否定できない。

親や友だちに言えばうんざりさせてしまうようなことを山ほど思いついてしまう、しかもそれを言わずにはおれないという厄介な性質を持って生まれてきた。

 頭に浮かんだ文句を口に出さずにいるのに人並外れた労力を要するし、よしんば奇跡的に堪えたとしても、その日はずっと言い損ねた文句に脳髄を支配され、もやもやを抱え続けた結果、自家中毒に陥る。排尿を我慢して膀胱炎になるのと同じ仕組みだ。

 そうして遅々として進まない婚活の進捗と婚活パーティで出会った変な男たちの生態を、延々とSNSに呟くようになっていった。その中でも、誰に言うでもない些細なことを誰かれ構わず吐露するのにTwitterは適当な媒体だった。

 婚活している間に出会った男たちへの罵倒を思いつく限り書いていく度に、誰かが何らかのリアクションをしてくれた。次第に共感のコメントが集まり、フォロワーが増えていった。もちろんアンチコメントも沢山ついたけれど、それも含めて小気味良い刺激があった。

 SNSのある現代に生まれて本当に良かった。さもなければ、間違いなく発狂して怨嗟を現実世界に垂れ流す偏屈ババアと化していたことだろう。

 Twitterのタイムラインには、私と同じように婚活に気負った同世代の連中が掃いて捨てるほどいた。彼らはいつも独自の婚活哲学を呟き続けていて、我が意を得たツイートを見付ける度、リツイートして拡散した。現実世界で口にすれば邪悪ともとられかねない内なる考えを他人が呟いているのを見かけると、ああやっぱりみんなそう思っていたんだ、自分の考えは間違っていなかったんだ、と答え合わせ出来たような気がした。

 そういう「婚活界隈」の連中でオフ会を開催しているのに参加したこともあった。

 けれどやって来た男たちはやっぱり歯牙にも掛けることが出来ないような雑魚ばっかりで、特に生産性はなかった。女たちは私と同じように少し性格に難のある微美人か、性格が良くても救えないブスばかりだった。世知辛いと思った。

 ネットで常に婚活パーティ開催のスケジュールを把握して出来る限り参加し、トンマな男と次から次に会って行くのは本当に精神修養にも等しい苦痛だ。

 渋谷会場のパーティで出会った男と、後日銀座会場のパーティで鉢合わせして、「あ、どうも……。」などと頭を下げ合い気まずい思いをした、みたいなことが何度もある。それを「運命だ。」などと思われてしまい、厄介な思いをしたこともあった。

 けれど、それもこれもフォロワーのみんなに笑ってもらうため。私はネタ探しのために、雑魚を漁りに奔走しているのだ。そう思うと、ほんの少しだけ気持ちが和らいだ。

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