ばいばい、だっちゃん。
だっちゃん
第1話だっちゃん
「普通にクソジジイだったわ。」
渋谷駅の改札で男と別れ、だっちゃんにLINEを送った。即座に既読がつき、返事が返って来た。
「こっちはまだ戦闘中! ちょっと待ってくれよん。」
ハァ! と聞こえよがしにため息をつき、背後を振り返った。後をつけてきていたらどうしよう。あの男ならやりかねないと思った。
居酒屋の前で男に、「今日はありがとうございました、では! 」と確かに言った。その「では! 」の意味を、男は汲み取ってくれなかった。
「あ~、駅まで送りますよ~。」
などとトンマに間延びした声で応える男の声が耳障りで、私の神経を逆なでした。
「いえいえ、結構です。駅まですぐですから。」
「遠慮しなくて良いんですよ、だって、「そういうもの。」じゃないですか~。」
男の返事が逐一怒りを掻き立てた。ここでこうして問答している1分1秒が惜しかった。大体、何が「そういうもの。」だというのか。お前のようないかにも恋愛経験のない男が、一体何を知って「そういうもの。」を覚えたんだ。どうせ本屋に平積みされてる三流ナンパ師の恋愛工学マニュアルだろうが。
「いえいえいえ。」「いやいやいや。」と三度も応酬を繰り返し、仕方なく私が折れ、駅まで見送られることになった。もはや駅まで付いて来られたに等しい。
久々に渋谷に来たのだからロクシタンでも寄ってハンドクリームを買い足しておこうかと思っていたのに、お陰で行き損ねてしまった。
どうせ「少し買い物したいから、ここで別れましょう。」などと言おうものなら、「付いて行っても良いですか~? 」などとあのノロマな声で食い下がるに決まっているのだ。それを無下に断るのも面倒だったし、とはいえあの男が買い物に付いてくるなんてのは死んでもご免だった。あれを連れて歩いているところを知り合いに見られたりしたら、もう二度と東京の土地を踏めなくなってしまう。
仔細を思い出すだにイライラしていると、間もなくホームに電車がやって来た。乗り込むと夜の20時だというのに車内はサラリーマンとOLがひしめき合っていた。そこから発せられる毒々しい瘴気が目に見えるようで、不快だった。一体何が悲しくてこんな奴隷船で移動しなければいけないのだろう。
ふと目の前にいるハゲた小太りの中年が吊り革を掴む手を見ると、左手の薬指にはボンレスハムの紐みたいに深々と食い込んだ金属片が光りを放っていた。
こんな小汚いおっさんでも結婚できているというのに、私たちときたら。そのことを思うと眩暈がした。
男の腕からとろみのついた汗が肌を伝い、スルスルと流れていくのが見えた。その吸い込まれて行く先に目をやると、汗染みで色の変わったワイシャツの腋が私の顔を向いていた。ここから漂う水蒸気が精子みたいに私の鼻孔に入り込み、張り付いて臭いを感知させるのだ。男との間に抱え込んだ革製のカバンだって多少なりともこの男の脂を吸っているのだろう。誕生日に父親にねだって買ってもらったケイト・スペードのバッグが。そのことを思うと軽い吐き気を覚えた。
女の脇汗対策をうたう広告はいくらでも流れているというのに、どうして男たちは何の対策もせずに許されているのだろうか。
さすがに、だっちゃんだってこのおっさんよりはマシだよ。と心の中で呟くと、良いタイミングでスマホにLINEの通知が来た。
「本日も、結婚できませんでした! 」
これがだっちゃんの常套句だった。要するに、今日も女の子とのデートが上手くいかなかったということ。最初は笑ったけれど、本当はとっくに飽きてきている。わざわざ指摘はしないけれど。
かくして未だ20代アラサーであるだっちゃんも、陳腐なオヤジギャグを連発するジジイへの道程を着々と歩んでいるのだと思った。
ああでも、私、同い年なんだった。そのことを思い出し、やっぱり次会ったときに新しいギャグを考えるよう指南しておかなければいけないと思った。
「だっちゃんお疲れ! 今、どこ? 」
「今? 新宿だよん。近くにいるなら、これから飲む? 」
「飲む! すぐ向かうから、アルタ前で待ってなさい! 」
さすがに付き合いが長いだけあって話が早い。「今、どこ? 」というだけで、私が今飲みたがっていることまで察知するその能力、その辺の男たちにも見習って欲しいものがある。
新宿駅に到着し、人波をかき分けてアルタ前に駆けていくと、私に気付いただっちゃんがスマホから顔をあげた。
「今日もクソジジイだったんだ? 」
開口一番、そう言って笑った。
「笑いごとじゃないんだよ、もう~! 」
だっちゃんの腕を強めに殴った。今日も愚痴を肴に美味い酒が飲めるに違いない。それだけで今日はちょっと、マシな日だと思った。
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