【070】人魚姫

 人魚は憤慨していた。

 光の届かない深海にあってなお、虹色に光る自慢の鱗を撫でつけても、怒りは落ち着くことはない。

 怒りの発端は、彼女が暇つぶしにした、ほんの遊びから。

 海の中の世界では、深海の人魚は魔力が強い事で知られている。それ故に盲目的に力を傾ける事が無いよう、特定の親しい友人を作ることは避けるように言われて育っていた。だから人魚の元を訪れる者と言えば、その強い魔力を買いにくる者だった。対価に応じて魔力を使う。人魚はそうして生活していた。

 最近は魔力を求めにくる者もなく、大きな巻き貝を抱いて眠ってばかりだった。本当に退屈で、時間を持て余した人魚は、人魚の放つ魔力によって大量繁殖した巻き貝を、念力で海の上まで放っては受け止める、長距離お手玉に少しばかり夢中なった。放り投げる際は、魔力の調整をすればよかったが、巻貝が海の底まで落ちてくるのは重力を待たなければならないので、いつ落ちてくるのかはわからない。時には海流に攫われて戻ってこない事もあった。何もかも思い通りにできた人魚には、イレギュラーな事は微かに面白かった。


 一方海の上には、大きな帆船が停泊中だ。さる大国の王子が、豪華な回遊の途中、海から打ち上がる美しい巻き貝を見たからだ。突然海から舞い上がった貝は、玉虫色の貝殻を太陽に映し、なんとも美しく光ったという。

 美しい物は全て手に入れたいと考えていた王子は、たくさんの家来に命令して、巻き貝を捕まえさせた。そして躊躇なくその貝を割り、アクセサリーに換えてしまった。

 巻き貝は割られる前に、深海の人魚の近くにいた事で養われた唯一の能力、テレパシーで人魚に『ありがとう』と『さようなら』を告げた。周りの巻き貝たちは、しくしくと泣いた。

 そう、この伝言を聞いてから、人魚は憤慨しているのだった。


 絶対に王子を許すものか。深海の人魚は銀色の髪を逆立てたまま、海面を目指した。人間に姿を見られてはならない。そう古くから言い伝えられていたが、孤独を紛らわせてくれた巻き貝を、理不尽に殺されて、黙っている訳にはいかなかった。

 魚雷より早く水の中を進み、ざばんと大きな音を立てて海上へ飛び跳ねた。銀色の髪はきらめき、虹色の鱗は光を受けて一層まぶしく輝いた。

 看板にいた王子は、美しいものが大好きなので一目散に駆け寄ってきた。

「やあやあ、美しい人!一緒に飲みましょう!」

 そう言う王子の耳に、きらりと光るものがある。それは砕かれた巻き貝のピアスだった。

 人魚はそれはそれは冷たい目で王子を睨んだ。深い漆黒の瞳は大変美しく、棘を纏った視線が王子をより興奮させた。

「ああ!ぜひ一緒に紅茶を飲みましょう!」

 盛大に口から唾を飛ばして声を張り上げている。

 忌々しい、念力で海へ突き落としてやろう。そう人魚が決めた時、王子の近くにすり寄ってくるものがあった。

 真っ黒い小さな生き物だ。細くしなやかな体躯と四肢、尾びれのように長く柔らかく動く器官もあり、何よりも精悍な顔立ちのてっぺんに大きな二つの突起がある。それが可愛らしくも美しくもある。

 深海の人魚は強く興味を惹かれた。

「それは、なんだ」

 王子と会話することは毛頭ないはずだったが、やむを得ず話しかける。

「おや、知らないのかい?これは黒猫さ。美しいだろう」

 いちいち悦に浸った物言いで、王子が黒猫を撫でようと手を伸ばすと、ぐにゃりと体を捩って黒猫が避けた。そうして人魚の方へ向き、にゃあんと可愛らしく鳴いた。

 甘い黒猫の鳴き声は、人魚の頭に強く響いた。どうしてもどうしても、黒猫が欲しくなってしまった。

 深海の人魚にとって、奪うのは簡単だった。けれどそれでは王子と同じになる。唇を噛み締めるほど悔しかったが、きちんと提案をした。

「お前を殺しに来たのだったが、気が変わった。その黒猫をくれないか。もちろん、黒猫が良いと言えばだが。黒猫をくれるなら、殺さないことのほかに、もう一つ対価をやろう。私には魔力がある」

 黒猫がもう一度にゃあと鳴き、計り知れない寛大な配慮にも気がつかない王子は、

「交渉成立だ!」

 と指を鳴らして言った。

 王子は『世界中の紅茶を飲みたい』と願った。この回遊の目的も、各国の紅茶を買い付ける目的らしかった。人魚は『国の未来が傾いても、紅茶を第一にする代わりに、良い紅茶との巡り合わせを良くする』ように、未来を少し調整した。もちろん、詳しい内容は伏せたまま。

 黒猫には、水中で暮らせるよう体を少し作り変える許可をとり、胸に抱えて深海へ戻った。



 黒猫は自由だった。呼んでも近くへ来ない事もあったし、眠ってばかりの時もある。かと思えば、撫でて欲しいとすり寄って、喉を鳴らして甘える事もある。

 さすがの深海の人魚も、黒猫の気持ちは読めなかった。気まぐれな黒猫に、人魚はすっかり夢中になった。傾心の対象だと、周りは心配したが、黒猫は人魚になにも求めなかった。餌は自分で捕まえに行ったし、なによりにゃあとしか鳴かなかったので、段々とみんなが認める相棒となった。

 人魚は黒猫を連れて、七つの海を巡った。暖かい海も、冷たい海も泳いで回った。


 ふたり一緒の月日がいくつも過ぎた頃、黒猫はあまり動かなくなった。一日中寝てばかりになり、あまり食べず痩せたように見えた。にゃあと鳴く声が掠れてきていた。

 人魚にも、黒猫にも、死が近いのだとわかっていた。ふたりは何もせず、ただくっついて日々を過ごした。

 最期の日、黒猫は初めて言葉を話した。

「ありがとう。とっても楽しかった」

 人魚の側にいるうちに、魔力の影響を受け、話すことはとっくに出来ていたのだが、この日までにゃあと鳴き続けたのだった。人魚の側にいる為に。

 美しい金の虹彩にまぶたが落ちて、黒猫はもう目を覚まさなかった。

 一度は永遠を生きると決めた人魚だったが、黒猫のいない世界は、あまりに広くて冷たくて寂しかったから、朽ちていくよう魔力を使った。自分の全てを対価にして。


 こうして、人魚がまたひとりいなくなった。



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(本文の文字数:2,417字)

(使用したお題:「永遠」「黒猫」「念力」「ピアス」「紅茶」「深海」)

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