【054】月を見上げると、君の歌が聴こえた気がした。
僕と彼女が出会った場所は、飲み屋だった。カラオケができるスナックみたいなところだ。
そこで、てこでもマイクと日本酒の瓶を離さないぞという強い意思表示をしながら歌っていたのが彼女だ。彼女は僕の姿を見つけてにんまり笑い、言った。
「ウェルカムトゥジャパン! ようこそニンジャとサムライの国へ!」
それが出会いだった。
相当酔っていたらしい彼女は、両耳に黒いピアスをバッチバチに開けており、煙草の匂いがする髪は僕より明るい金色で、およそ僕のイメージするヤマトナデシコというものからは外れていた。
一方で僕はオタクカルチャーに惹かれてこの国に来た、ただの留学生だ。バイト先のおじさんたちに連れられて来ただけで、別に歌も酒も好きではない。
だが、おじさんたちに呑まされた僕も大いに酔っていた。気付けば彼女の部屋で朝を迎えており、彼女の右太腿には生意気そうな黒猫のタトゥーがしなやかに彫られていたなと、呆気にとられながらもそんなことを考えていた。
しかして僕たちは交際を始めた。意外なことにと言ったら彼女は怒るだろうが、当時の彼女には交際相手がおらず、僕は突如現れた飛び込みのチャレンジャーだったのだ。
しばらく、彼女の家に入り浸った。恋人の家に入り浸るなどという経験はそれまでの僕にはなかったが、そんな僕でも彼女の家は妙に居心地がよかった。
例のタトゥーが表すように、彼女自身まるで猫のような人だったと思う。
甘え上手で奔放で、気まぐれにすり寄ったり離れたりを繰り返す。
それから、歌と酒が何より好きな人だった。家の中でもそれは変わらず、ひしゃくやらしゃもじやらをマイク代わりにしながら何やら歌っているのが常だった。
そんな彼女を見ていると、故郷ではただのナードだった僕もすっかり明るくなったように思えて、スクールでやらされたきりのダンスなんかに彼女を誘ったりしたものだった。
ある時僕らは、鍋焼きうどんで日本酒を一杯やりながら、月を見ていた。とても寒い日だったと思う。夜空は鮮やかに綺麗で、鍋焼きうどんはここぞとばかりに美味かった。
“月見には日本酒と相場で決まっている”
彼女がそう言うので、僕もその時熱燗を引っかけていた。
彼女は僕に色んなことを教えてくれた。その一つが日本酒の呑み方だ。本当に色んなことを教えてくれたのだけど、煙草の吸い方だけは僕が頼んでも最後まで教えてくれなかった。
「だからね、ハニー」と、彼女が真面目な顔で口を開く。
「かぐや姫って宇宙人なのよ」
前後の文脈をよく覚えていないが、そんなことを彼女は言った。僕だってオタクの端くれだ。日本のお伽噺などへの造詣は深い方である。
「竹取物語のラスト、なんだか情緒的に締められているけれど、実際はこうよ」と言いながら、彼女は自分の右手を握って未確認飛行物体を模し、「ウィンウィン」と効果音をつけながらキャトルミューティレーションされていくかぐや姫を表現した。
おわかりだろうが、その日も彼女はかなり酔っていた。
「この国は昔から地球外生命体と共存してきたの。河童だって宇宙人だし、ツチノコだって地球外生命体に決まってるんだから」
彼女が『決まってるんだから』と言った時に本当にそう決まっていたことは一度もないので、僕はその話を慎重に聞く必要があった。
「いい? “E.T.”が公開される千年近く前には、もうこの国には宇宙人との出会いと別れの物語があったんだからね」
よくわからないマウントだった。
いつも通りの酔っ払いの妄言だったが、なんだか僕はその時、『この人はなんて可愛いんだろう』と思ったのだった。たぶんこの国で言う、あばたもえくぼ、みたいなもんだろう。いや、恋は盲目、かな。
そんなささやかなやり取りを、僕はすっかり忘れていたし、彼女も当然忘れただろうと思っていた。思い出したのは、それから数年後のことだった。
軽い気持ちで帰郷したきり二年も日本に戻れなかった僕が、彼女と再会したのは病室でだった。
ベッドの上で彼女は猫みたいに眠そうな顔をして、「あのね」と言った。
「私、かぐや姫なの。そろそろ月からお迎えが来るのよ」と。
バチバチに開いていたピアスはなくなって、短くなった髪は黒くて、酒の匂いも煙草の匂いもしなくて、彼女はなんだかまるでヤマトナデシコみたいだった。
そんなの君に似合わない、と思った。
「そんなの君に似合わないよ」と、僕は言った。
僕は講義もバイトもそっちのけで彼女の病室に通った。彼女は浮かない顔をして、「来なくていいよ。あなたデリカシーのない人ね」と言ったけれど、僕は毎日行った。そのうち彼女は呆れた顔をして、「私がやつれて宇宙人みたいになっても嫌な顔しないでよね」と言った。僕が少し考えてから「大丈夫だよ。二日酔いの君の方が本当にひどかったから」と肩をすくめると、彼女は近くにあったスリッパで僕をぶった。
彼女が時折口ずさむ歌が妙に懐かしく思えて、「こんなところでも歌っているの」と僕は尋ねた。
彼女は悪戯っ子みたいに笑って「知ってる? 宇宙には、たくさんの歌や挨拶を載せた惑星探査機が飛んでいるのよ」と言う。
「ボイジャー1号と2号のこと?」
「そう。ボイジャーのゴールデンレコード。広い宇宙で、いつか誰かに届きますようにという祈り」
何の話をしているんだろうと思ったが、彼女は続けて「私もこの
「君がゴールデンレコードになるの?」
「そうよ。だから練習しておかなくちゃね。私の好きなうたをたくさん、月で流行らすの」
僕は傍にあった小さなテーブルに肘をつきながら、「ふうん」と瞬きをする。
「でも、この国から一度も出たことのない君が持っていく歌なんて、ゴールデンレコードにしちゃ味気なさすぎるよ。もっと世界中の歌を持っていかなくちゃ」
「失礼ね。海外に行ったこともあるわよ。あの、なんだっけ……すごく大きな顔の像があるところ」
「モアイ像?」
「そう、それ」
どうしてよりによって唯一の海外旅行がイースター島なのかはわからないが、僕は笑いながら続けた。
笑ってはいたけれど、たぶん僕の目はかなり本気だっただろう。
「僕も一緒に連れて行ってよ。きっと、ゴールデンレコードとしての役目をしっかり果たしてみせるよ」
彼女は目を丸くし、何とも言えない顔で僕を見て、それから――――
なんでだか聞き分けの悪い子供を見るような、呆れた、だけれどたとえようもなく愛しげな目をした。
「急がないでよ。また次も、この広い宇宙であの日みたいにばったり出会おうよ。永遠みたいな時間かもしれないけど、私、歌でもうたいながら、ずっと待ってるからさ」
僕のかぐや姫はそう言った。今なら、不死の霊薬なんか残された人の途方に暮れる気持ちもわかるような気がした。僕が日本人だったら何か歌を詠んでいたかもしれない。月なんかぶっ壊れちまえ、みたいな歌になっただろう。僕が和歌を嗜んでいなくて本当に良かった。
それからしばらくして、彼女がこの
たしかに空には星が一筋、月に向かって流れていた。
ああ、彼女のことを連れて帰ったんだなと思った。
それから僕は、嗚咽を漏らして泣いた。
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(本文の文字数:2,893字)
(使用したお題:「永遠」「鍋焼きうどん」「ニンジャ」「河童」「黒猫」「うた」「日本酒」「未確認飛行物体」「モアイ像」「ひしゃく」「ピアス」)
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