【042】さらさらさら
さらさらさら。
ふと目線を上げると僕をじっと見つめる彼女と目が合う。
あの時と同じだ。
初めて出会った時もこんな感じだった。
何故そんな所に座っているのか分からなかったけれど、不意に惹き付けられるかの様に目が合ってしまったのだ。
刹那。僕のひとめ惚れ。
何とかお近づきになれる切っ掛けが欲しくて、色々とアプローチした。
けれども彼女は警戒心を露わにして、なかなか受け付けてくれない。
それでも顔を上げる度に目線が合う。気のせいじゃない。
だから必死にアプローチを続けて、最後は食事に誘う事が出来た。
それだけじゃない。それから僕は彼女と一緒に暮らす様になったのだ。
僕をじっと見つめている彼女から目線を外し作業に戻る。
さらさらさら。
万年筆を久しぶりに買い替えた。少しだけ書き味が違う。
流れて行くペン先が紙に擦れる音だけが部屋に響いている。
筆が乗って来ると手についたインクが擦れて原稿が汚れてしまう。
日本語は左から書く方が描きやすいのに、いつから右から書く様になったのだろうか。
左からなら手も原稿も汚れないのに……。
さらさらさら。
僕と彼女しかいない空間に響く紙とペン先が擦れる音。
いや、もうひとつ。
ベッドの上に横たわり、美しい瞳でじっと僕を見つめている彼女の穏やかな吐息が聞こえて来る。
彼女は僕を見つめながら何を想っているのだろう。
僕が愛しく想っているのと同じように、彼女も僕の事を想ってくれているのだろうか。
さらさらさら。
不意に彼女がベッドから立ち上がり僕の傍に。
椅子の後ろに回ると優しく抱き付いて来た。
肩に掛かる彼女の暖かさと、首に吹きかけられる吐息が愛しい。
顔を寄せて来た彼女に僕も頬を寄せる。
一緒に住み始めた頃。彼女を見た友人はツンデレで黒猫の様だと言っていた。
僕も最初はそうだと思っていた。
でも違う。彼女はツンデレじゃない。いつだって僕に甘えてくる。
彼女との生活を続けているうちに、近しい友人も訪ねて来なくなった。
元々人付き合いが苦手だった僕は、彼女さえ傍に居てくれるなら全く寂しく無いし、むしろ彼女との時間が沢山持てて感謝するくらいだ。
さらさらさら。
皆から黒猫の様だと言われていた彼女。
でも、時々訪ねて来る猫たちに、彼女は全く好かれなかった。
窓の外から家の中を覗く猫たちは、気が付いた彼女が嬉しそうに近寄ると一目散に逃げて行く。
その度に彼女は寂しそうに猫たちを見送っていた。
僕には何で猫たちが彼女に懐かないのか分からない。
こんなに優しくて素敵な女性なのに。
さらさらさら。
後ろから抱き付いたままの彼女が耳たぶを甘噛みする。
ん? お腹が空いたのかい。
時計を見ると思った以上に時間が経っていた。
執筆に集中してしまうと、他の事をすっかり忘れてしまう。
肩に乗せられた彼女の手を取り、振り向いてそのまま抱きしめる。
しなやかな体のラインが愛おしい。
抱き合ったまま彼女と見つめ合い、愛しくてキスをする。
彼女も嬉しそうにキスを返してくれた。
ざらざらざら。
彼女は仔猫の様にちょこんと座っている。
僕が食事を差し出すと嬉しそうに微笑んでくれた。
美しい背中を僕に見せながら食事を頬張る彼女。
堪らずそっと触れると滑らかな黒髪が心地良い。
僕が余りに撫でまわすから、彼女が不思議そうに振り返る。
そんな彼女に目を細めて微笑むと、彼女も愛しそうに眼を細めてくれた。
さらさらさら。
食事を終えた彼女は、またベッドの上で僕の事をじっと見つめている。
美しい肢体に直ぐにでも抱き付きたいけれど、執筆が終わるまで我慢だ。
さらさらさら。
あと少しで描き終わるから、そこで待っていてね。
出会ったあの日から僕の事をずっと見守ってくれる彼女。
僕の愛する黒豹の彼女……。
----------
(本文の文字数:1,498字)
(使用したお題:「黒猫」《叙述トリックの使用》「万年筆」)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます