【041】船幽霊の柄杓飯、河童の嫁入り、その他。

 河童の奴にお尻ホールへ手首まで捩じ込まれ、尻子玉を鷲掴みにされて甲高い悲鳴を噛み殺したあの日。

 私を取り巻く時間は止まったままだ。

 空をやすりで削るようなさざれ雨が小さな波紋を浮かべては破り、破いては浮かぶ。そんな揺れずの水面の河童淵を前に、あの時を思い出しては頬を火照らせる私がいる。私の人生を決定付けた一撃。忘れた夜はない。




 船幽霊は青白い微笑みを浮かべて言ったものだ。


「するってえとおまえさんは恋煩いの妙薬が欲しいってワケかい」


 馬鹿げた質問だ。色恋沙汰など、私ごときが声に出すのもはばかられる。あの日から私は身も心も河童に奪われたままだ。恋煩いだなんておこがましい。

 私はただ従順な乙女の気持ちを持った一人の人間にすぎない。その人間が妖怪に心酔するなどと。


「あの日奪われた尻子玉。とても艶のある乳白色をしていました」


 まるでいびつな真珠玉。螺鈿細工を施したように斑に光沢を持ち、硬質の翡翠色した河童の骨張った指によく馴染む色彩だった。


「そいつは難儀したな。尻子玉、取り戻したいのかい」


 船幽霊は恋愛成就のひしゃくを持つと人は言う。さざめく海は船幽霊の言葉をおぼろげに揺らし、かすれた声は絶え絶えになって私を惑わす。


「はたまた、その宝物を河童の奴に託したいのかい」


 だから、船幽霊は嫌いだ。さざなみのように心の塊を削り洗い、揺らぐ思いをもてあそぶ。


「それを確かめるために、ひしゃく飯なる料理を知りたいのです」


 船幽霊は海に浮かぶ小舟に近付き、ひしゃくで海の水を舟に掻き入れて沈めてしまう海の妖怪だ。そのひしゃくには人を惹きつける力が宿っている。

 ひとたびひしゃくに白米が盛られれば、もはやその魔力に抗う術はない。川の妖怪もまた同じ。心の理は人も妖怪も等しく脆い。


「そうさのう」


 船幽霊は着流した着物の懐からひしゃくを持ち出し、うねりのある笑みを見せてくれた。ひどい船酔いのような心持ちにさせられる。でも、不思議とあのひしゃくに白飯を持って貪りたいとも、思った。




 海の男は舟の上で陽の光に強く当てられる。だからひりひりと灼けるように喉が渇く。

 水が欲しい。水をくれ。腹の底から水を求める。

 しかしがぶがぶと水を飲めば今度は体力が奪われ、舟を操ることもできずに波に攫われてしまう。

 そこで柄杓飯を食う。

 ひしゃくに酢飯を盛る。赤酢がいい。海の青に酢の赤がよく映える。

 お次は胡瓜だ。ぴんと張りのある、何だったら薄棘が痛いほど新鮮な奴が旨い。魚を捌くものでも菜葉を切るものでもなんでもいい。包丁の柄で胡瓜をぶっ叩く。荒く、雄々しく、割り砕く。すると水が溢れ出てくる。

 海の上で待望の水だ。喉を潤してくれるよく冷えた水だ。だが早まるな。ここで飲み干すにはあまりに惜しい。

 割れた胡瓜に胡麻油を染みらせる。遠慮することはない。たっぷりとだ。胡麻油がよく馴染むよう揉みしだき、藻塩を振るってやる。まずはそいつでひしゃくの酢飯を半分覆う。

 そしてまた残した胡瓜にもろみ味噌を和える。味噌にはマヨネーズ多目と一滴の醤油が溶かしてある。割りもろきゅうの出来上がりだ。そいつをもう半分の酢飯に乗っけてやる。

 船酔いの柄杓飯の完成だ。胡麻油の香り、藻塩の塩っ気、味噌の甘み、隠しきれないマヨネーズのコク、おっと、一滴の醤油も忘れてはいけない。それらが漏れ出る胡瓜の水分と渾然となって酢飯に浸る。油に濡れた酢飯の旨さを知らないわけはないだろう。

 熱い太陽の下、豪快に掻き込めば、喉も潤い腹も満たされること間違いなし。

 船幽霊のひしゃくが持つ魔力も相まって、河童だろうが妖怪だろうが、誰だろうと酔わせてしまう柄杓飯だ。




 河童淵のほとりで私は待ち侘びる。恋に焦がれて、たとえ不相応な相手であろうと覚悟はできている。人間と妖怪と。相容れぬ想いは誰に理解されようか。神。ならば神とも戦おう。悪魔。悪魔であろうと邪魔はさせない。

 さざれ雨に濡れそぼる。

 胡瓜の胡麻油和えの香りに誘われ、もろみ味噌の合間に覗く胡瓜の鮮やかな緑色を拝もうと、河童が現れた。

 狐の嫁入りという言葉がある。今日はおかしな空模様だ。晴れ間に太陽が見えるのに細かい雨が降りしきる。狐ならぬ、河童の嫁入りとでも呼ぼうか。


「私を覚えておいでか?」


 河童に問う。私のたった一つの、大切な心の尻子玉を奪ったのは誰あろうあなただ。たとえあなたが忘れようが私の尻が覚えている。


「おまえを忘れるわけがあろうか。いや、ない」


 河童は淵から上がり、大地に仁王立ちした。


「大きく、なったな」


 何を今更。あれから何年経ったと思う。


「この胡瓜の柄杓飯をあなたにやろう」


 胡瓜は河童の好物だ。嫌と言うはずもない。


「私の尻子玉もあなたが持っているがいい。大事にしてくれ」


 私は身に着けていた浴衣をはらりと解いた。一糸纏わぬ上半身が露わになる。袖を回して腰に結び、ぱしり、柏手を打つ。


「いざ、尋常に勝負!」


 河童相手に水の中では不利だ。しかしこの大地の上なら、私に地の利がある。


「よかろう」


 河童がしゃがむ。

 この女人禁制の土俵の上では人間も妖怪もない。力士たるもの、その想いは一つ。


「どすこい!」


 私はどっしり四股を踏む。

 体重120kgのおっさんと身長2メートル越えの河童が、いま激突しようとしていた。



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(本文の文字数:2,123字)

(使用したお題:「河童」《叙述トリックの使用》「ひしゃく」《飯テロ要素の使用》)

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