第40話 新しい教師
念願のデビュタントの予算案を入手した。
これはごく簡単で、会計担当の者にことの次第を話すと難なく書類を渡してくれた。
アダムス先生と同じ時にスカウトした経理のリゲルと、頭を突合せて帳簿を見る。
リゲルは国庫の経理はしてきたものの、婦人物の服やデザートや食器などのそれぞれの細かい価格相場はわからず、苦肉の策として、ヒューズ様に頼んでパーティーに詳しい者を送ってもらった。
もちろん、ヒューズ様ご自身はあまりパーティー自体に興味が無いので「コイツに任せれば大丈夫だよ」と手紙を持たせてその人を送ってくれた。
ヒューズ様のお墨付きである方はご婦人で、ベリー男爵夫人と名乗った。
男爵夫人!
それを『コイツ』呼ばわりするなんて!
ヒューズ様はいつもわたしを困らせてくれる。慌てて、それ相応の部屋を用意してくれるよう、アンとリリーに頼む。
すると夫人は「どんな部屋でも構いませんのよ」と仰った。
細身で顔も面長、グレイになった髪をキュッとひとつにまとめている。それだけ聞くとさぞ厳しそうに聞こえるけれど、声も笑顔も穏やかで物静かな佇まいの方だった。
「ニィナ様、しばらくの間ですが厄介になります。ヒューズ様からニィナ様のことはよく伺っております。粗相のないように努めますが、なにかありましたら迷わずすぐに仰ってください」
「男爵夫人、わざわざオースティンまでお越しくださりありがとうございます。わたしのほうこそ社交界に不慣れで手こずらせることがあると思いますが、どうぞご指導よろしくお願いします」
わたしがそう言うと、男爵夫人はやさしく微笑まれた。さすがヒューズ様が寄越されただけあって、物腰はやわらかだけど、隙のなさそうな方だった。
「ニィナ様、どうぞ私のことは『キャロル』とお呼びください。『男爵夫人』は確かに私ですけれど、それはたまたま夫が男爵だっただけですから」
「いえ、ご身分を考えたら······」
「いいえ! 私、ライオネスの港近くのレストランで店員をしていたことがありますの。その時、たまたまいらっしゃったうちの夫に見初められまして。それがたまたま男爵だったというだけのことです。
ニィナ様も社交界にお詳しくないということでしたが、私もそんな訳で社交界なんてちんぷんかんぷんで、しかも田舎の小さい領地しか持たない男爵家でございましょ? 最初はマナーから始まり、大変な思いをしましたわ」
「まぁ! とってもロマンティックですわね」
「ありがとうございます。そういうふうに仰ってくださる方も多いんですけどね、人での少ない中での領地経営はなかなか大変ですよ。今は息子に素晴らしいお嫁さんがいらして、手伝ってくださってますが」
「······そうなんですか。わたしにも領地経営、できるかしら?」
「私にできたんですから。さぁ、この荷物を部屋に開けて、今回の予算案を見せていただきましょうか。田舎男爵の嫁ですが、ヒューズ様に取り立てられまして今ではライオネスのすべての催事の用意を任されております。
――ニィナ様がいらした時もですよ。伯爵は一体ニィナ様のお身体がお幾つあるのかわからないらしくて、それこそ何枚ものドレスを仕立てたことか。女の身としてはドレスを仕立てるのは楽しい仕事ですけれどね」
ふふっとキャロルは笑った。
要するに平民出身であると仰りたかったんだろうけど、無駄のない美しい所作はとてもそう思わせなかった。
······海辺のレストランていうのはあそこのことかしら? あの、殿下が乱入していらっしゃった。その、どうでもいい小さいことが頭から離れなかった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
デビュタントの予算案は何枚もの紙に分かれていた。その紙束をリゲルはキャロルに渡した。
キャロルは眼鏡をかけて、一枚目から順番に、細かく小さな文字を検分していった。わたしは腰かけて、それを待っていた。
キャロルはアンにお茶を持ってくるよう言った。そしてわたしに「すっかり見てしまいますからお茶でもどうぞ」と言った。
眼鏡をかけたキャロルはマナーの先生以上に厳しい目をしていた。
最も、わたしのマナー講師はわたしにマナーを教えることより、お母様に気に入られることに熱心だったのだけど。お母様に気に入られればお母様のサロンに入って、贅沢で豪奢なパーティーに参加する権利を持つ。
お母様曰く、「本当に品位の高い方」だけの集まりだったけれど、その実はお母様に媚びることで上の階級と交わることを目的としている方がほとんどだった。
まだ小さかったわたしは、ロシナンテと庭園に遊びに行く時、その集まりが行われているのをよく見た。
それこそ大輪の薔薇が多く植えられたお母様の庭園で、ティーパーティーはよく行われていた。誰かの笑い声が絶え間なく聞こえていた。
「目を通させていただきました」
「······いかがでしたか?」
キャロルは顎に口を寄せて「そうですね」と呟いた。なにも言わないまま部屋をくるりと歩いて、ピタッと止まると「私もお茶をいただこうかしら?」とアンに言った。
予算案、とは言ったものの、お母様の下の者がお母様の仰るままに書いたものだ。
例えば都から呼び寄せたデザイナーに発注するドレスは言い値のまま、紙に記される。お母様は数字は知らない。
すべてにおいて同じく、お皿も有名な磁器の店の最高級品を値段を見ずに多めに見積もった枚数で書かせ、それを係りの者は計算する。
予算なんてないんだ。
欲しいものは買う、それがお母様のスタイルで、少しでも無駄を省くという考えはまるでない。
今回もドレスと一緒に大粒の宝石に細かい装飾を施したプラチナのアクセサリーを新調するんだろう。
同じようなものでお母様のクローゼットは溢れているというのに。
ことん、とお茶を飲んでカップを下ろしたキャロルはまずこう言った。
「同じ伯爵家ですけれども、こちらのパーティーはとても豪華なものですよね。私も条件さえなければ、こういうパーティーを開いてみたいものですわ!
最も、ヒューズ様はそれなりに失礼のないようにおもてなしできれば、華美なものは一切いらないと申しますの。
ですから私、失礼ながら、お客様のランクに応じてのサンプルケースをヒューズ様に上げました。それでやっと、折り合いがついたのですわ」
「ランク?」
「ええ、パーティーの目的、規模、参加される方の爵位などのご身分――そういうものをランクに分けたんです。ヒューズ様は笑っておられましたけどね」
おほほほほ、とキャロルもその時を思い出したんだろう。痛快、という顔をして大きく笑った。
わたしはちょっと驚いてしまい、俯いてしまった。他人様の前で婦人があまり大きな口を開けて笑うことは良しとされないからだ。
「あら、失礼いたしました。ヒューズ様はフランクな方で、私が平民のようにしておりましてもちっとも嫌な顔をされないんです。
普段から港あたりをふらふらしていらっしゃいますから、慣れていらっしゃるんでしょう」
ふふ、と今度は上品に微笑んだ。
わたしも思わず笑顔を作って返した。
これはなかなか個性的なご夫人をお迎えしたなぁというのが感想だ。
「ああ、それでパーティーのことですが、ニィナ様のデビュタントですからそれは盛大になされるようですわね。これは当然のことです。伯爵家令嬢の社交界デビューですもの。うちの伯爵様にもこれに見合った服を仕立てなければと思ってしまいましたわ」
「そうですか······」
キャロルの言葉はわたしの思っていたものとまったく違った。
結局わたしはお母様のプランを馬鹿にしてほしかったんだ。そんな規模のものを、と。
しかし、すんなり肯定されてしまって、明らかにしゅんとするのを隠すことができなかった。
「お嬢様こそ、これをどうお考えで? 高貴な身分のお嬢様は、デビュタントの用意をご自分でナプキン一枚から考えられるそうですが」
「わたしは!」
キャロルは興味深そうにわたしを見た。
肩に力の入りすぎていることに気がついたわたしは、一度、ゆっくり呼吸をして少しでも納得してもらえるよう、感情的にならないように気をつけて話し始めた。
「わたしは、分相応のパーティーで良いと考えています」
キャロルの目がパチパチした。
そして彼女はお茶を上品に一口飲むと、カップを優雅に下ろしてこう言った。
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