第39話 社交界というもの
「つまるところ、お嬢様、『ロバのロシナンテ』というのは存在しないのです。まやかしです。おわかりでしょうが、あの方は非常に高貴な血を引いておられる
ここまで聞いて、お嬢様はどう思われましたか? ユージーン様にさぞ同情されたことでしょう。
しかし世の中には嘘で隠した方が良いこともあるのですよ。でなければあの方は」
「先生、ロシナンテが人間になった姿を見ました」
アダムスは話を続けようと開けた口を、すぐに閉じることができなかった。ああ、やはりこれは一大事なのだな、と思う。
言わなければよかったのかしら? ⋯⋯でも隠していることで現実が好転するとは思えない。
すべてを知っているこの人の助けが必要だ。
「⋯⋯人間の姿に?」
「はい、深い茶色の髪と瞳、鼻筋の通った顔立ちの整った身体のしっかりした、そう、男性だったんです⋯⋯。わたし、驚いてしまって」
「その時になにか特別なことは? ほかに見た者は?」
「特別なことは思い当たりません。満月というわけでもなく、人影もなく。心配なさらずとも、ほかの者は見ていないと思いますが」
「そうですか。⋯⋯それは由々しきことです」
◇
なにから話したらいいのか迷った。
話していいのかも迷った。
心の中の不安を口に出していいものか、それを考えていた。
「ロシナンテ様はなんと?」
「⋯⋯人間の姿が嫌なら、ずっとロバで構わないと」
「なんと⋯⋯お嬢様は?」
わたしは首を横に振った。
言葉にならなかった。
「わたしは突然のことを受け入れることができなかったんです。ロシナンテは幼い頃からずっとわたしに寄り添い、良くしてくれたというのに⋯⋯。
真実を受け入れることができず、ロシナンテを傷つけてしまったのではないかと、それが心配で⋯⋯。
わたしのせいで一生をロバのまま過ごす必要はないのですから」
「難しい問題ですな。ロシナンテ様が人間に戻られたなら必ず皇室から声がかかるでしょう。
場合によってはその後、ロシナンテ様がこの城に戻ることは二度と叶わないかもしれません。皇位継承者をお持ちですから」
どうすることもできないこと。
それは努力をしてもどうにもならないということ。
真実は覆せない。知ったことは知らないことにできない。
わたしはロシナンテが人間⋯⋯しかも皇族であるということを知ってしまった。それは、わたしには遠い人だという曲げようのない事実だ。
◇
「ふむ。しかしロシナンテ様の呪いがなぜ急に解けてしまったのか。期限のある呪いだったのか、それとも効力が薄かったのか⋯⋯或いはなにか別の要因がそうさせたのでしょうか。
どちらにしても、大事です。これはロシナンテ様おひとりの問題ではないのです。国を揺るがす問題なのです。
ロシナンテ様がユージーン様にお戻りになられたら、レイモンド殿下の皇位継承権が二位に下がります。このことで不利益を被る者がおります。――おわかりですか?」
「⋯⋯公爵家ですね。レイモンド様のお母様、つまり妃殿下は公爵家の出ですもの」
「その通り。ユージーン様の存在そのものが危険なのです。皇宮の中で手厚く守られるならよろしいのですが」
「しかしレイモンド殿下はほとんど公爵領においでだとお聞きしました」
「皇宮は公爵家に関わりのある者ばかりですよ」
「でもレイモンド殿下は⋯⋯」
アダムスは哀しい目でわたしを見た。
それ以上言っても、なにも変わらないということだ。わたしは俯くしかなかった。なぜならわたしにはなんの力もないから。
「レイモンド殿下は自分が公爵家の人間であることはよくわかっていらっしゃる。そしてそのせいで政治に僅かなりとも偏りがあってはいけないこともよくご存知です。
しかし殿下であっても、公爵の言うことを覆すのは難しい。身分を振りかざして自らの祖父に意見を変えさせるのは難しいでしょう」
『悲しくはありますが、殿下もまた利用されているのですよ。この国の貴族の中でホーネット家がいくら公爵位があるからと言っても、力を持ちすぎだとは思われませんか? これは危険な考えです。しかし本来なら、力は分散されるべきなのです。殿下のお生まれであったとして、その一極に力が集まり、皇室を動かせるような強大な力を持ってはならないのですよ」
◇
アダムスは本当にこの話のすべてを『わたし』が理解していると思っているんだろうか?
これはどう考えても所謂『高度に政治的』な話だった。十六になる前のニィナにそれが理解できると?
それを表すように、ニィナは自分の内側に引きこもってしまった。考えがまとまらないんだ。
十六の娘になにができると言うんだろう?
まだ『恋』さえままならずにいるのに――。
✩.*˚
王子様はお姫様にとって素敵な存在で、しあわせの象徴だ。
でもその王子様が何人も現れたら?
✩.*˚
女の子ならそれを考えるだけで卒倒ものだ。政治的側面なんてお堅い話ではなく、ニィナのように心揺れるのは当たり前だ。
これまで歳の近い者たちとの接触が少なかった上に、婚約、政略結婚、そして殿下――。
わたしの怒りとは関係なく、目から涙が溢れていた。止めることができない。
これは、ニィナの心が流した涙だ。
「お嬢様、お嬢様にはなんの責任もないのです。それはユージーン様でもレイモンド殿下でも変わりなく。政治はいつでも利用される危険性がある。どんなに優れた統治者がいてもです。
さあ、もうお泣きなさるな。今晩は侍女に頼んで温かいミルクでもいれてもらい、すぐに休まれるといい」
わたしは立ち上がり、早足でその場を去った。
◇
ミルクのやさしい匂いが鼻をくすぐる。
ああ、そう言えば昨夜は寝つけなくてアンにホットミルクを頼んだっけ⋯⋯。
昨夜⋯⋯。
コンコンコン、と正しいノックが三回。ロシナンテだ。心が嵐の中の小舟のように揺れる。
『おはようございます、お嬢様。お手紙が届いております』
『ありがとう、ロシナンテ⋯⋯』
昨夜の記憶が徐々に巻き戻る。
ロシナンテはロシナンテであって、ロシナンテじゃない。そうだ。もう覆せない。
「お手紙の中に招待状が入っておりました」
「⋯⋯どなた?」
「ホーネット公爵夫人から、お嬢様のように若い方を集めてティーパーティーを催すということですが、いかがいたしましょうか?」
なんていうタイミング。
公爵家⋯⋯この間のパーティーでの失態を思い出して、一瞬、顔が赤くなる。
「なんでもないのよ、後で参加する旨のお返事を書くわ。大丈夫」
ロシナンテは微かに首を傾げたような気がしたけど、手紙を置くとUターンして帰っていった。
彼はまるでなにごともなかったかのように、今日も完璧に『ロバのロシナンテ』だった。遠い日のように、あの鼻面を撫でさせてほしい、と子供のようなことを考えていた。
結局わたしはアダムスの話を聞いても、ロシナンテが『ユージーン』なんていうまったく名前の聞いたことのない人物だとは思えなかった。あの、彫りの深い男性とロシナンテは重なって見えなかった。⋯⋯見えなかった。
ペン先にインクをつけて、悪戯に『ユージーン』と書いてみる。違う、『ユージーン殿下』だ。
殿下がふたりになってしまって⋯⋯。
わたしの気まぐれな殿下は今頃どこにいるんだろう? いつも勝手に現れるくせに。
――わたしは殿下の何者でもない。アイリス様を押しのけるのは政治的に難しいだろう。
皇太子妃殿下になりたいのかと言えば、それは周りが喜ぶだけで、わたしの欲しいものは⋯⋯あの赤い瞳だけなんだ。
高い位など手にしなくていい。子供のようにそう思う。そんなことはできないのに。
あの方の隣に立つには、それを受け入れる覚悟が必要なんだ⋯⋯。
バルコニーにいると、あの人のことばかり思い出す。そんなに思い出が増えてしまったのかしら?
誰にも言えない思い出は胸いっぱいに甘い香りを残した。
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