第38話 遊び相手じゃなかった
夜、そっと灯りを持って先生の元を訪れた。
アンを通じて、その旨は伝えてあったので、先生は眠らずに待っていてくださった。わたしは城に音が響かないよう、そっとドアを後ろ手に閉めた。
「ようこそ、お嬢様」
アダムスはお茶を用意して待っていてくれた。
誰にも見つからなかったのでホッとしたところに、アダムスから座るように勧められる。古ぼけた書庫のような匂いのするこの部屋が、わたしはすきだ。
子うさぎが巣穴に潜るように、やわらかいソファに身を埋める。
「それで、どうなさったのかな?」
いよいよその時が来てしまい、口にしなければいけない言葉をなぜか飲み込む。
――言葉にできない。
なにをどんなふうに言ったらいいのかわからない。見たこと、聞いたこと、知ったこと⋯⋯なんて言ったら、なにから話したらいいんだろう?
「ふむ。言い難いことだからこんな時間にいらっしゃったんでしょう。さて、どのことでしょう?」
「⋯⋯秘密にしてくださいます?」
「もちろんですとも」
「あの⋯⋯」
言い淀む。
やっぱり言えない。
言ってしまったら、当たり前だった世界がひっくり返ってしまう。
「⋯⋯ふむ。難しい話のようですな。ゆっくりでいいんです、お茶でもどうぞ。アンにウェーザーで手に入れたお茶をいれてもらったんですよ。ほら、湖水の香りがするでしょう?」
わたしはくすりと笑った。
紅茶からは芳しい香りが立ち上っていて、さすがに湖水の香りはしない。
「年寄りの冗談はつまらないですな」
「いいえ、先生のご冗談に笑わされたんですもの」
わたしはそっと緊張状態から解かれて、大きく息を吸い込んだ。吸って、吐く。
心臓が嫌な音を立てる。
◇
「ロシナンテ、のことなんですけど」
「ほう、ロシナンテ様の話でしたか」
「あの······。先生はもしかして、ロシナンテが本当は」
「わかっております。それは言い難いことだったでしょう。お嬢様とロシナンテ様は幼少の頃からご親交が深かったと聞いています。
――お訊ねの件ですが」
「はい」
本当のことを言うと、まだなにも訊ねてなどいないのだけど、先生はこの時のための答えを用意していたようだ。もしかしたらロシナンテが相談に来たのかもしれないし、そうでないかもしれない。
わたしは答えが知りたいのか、それとも知りたくないのかわからなくなってくる。
「ロシナンテ様は
これは良いことか悪いことか、難しいのです。
お嬢様に理解が及ばなくても仕方のないことです。しかし、ひとつ言えることは、ロシナンテ様が人間に完全に戻ることは大きな危険を伴うのです」
古の······。
あるとは聞いていたけれど、こんなに身近にあったなんて。しかも、人間を半獣に変えることのできる呪いは想像するだけでも大きな犠牲を払わなければならなさそうなのに。
誰が、なぜそんなことを。
「ふむ、隠さずに申し上げると、ロシナンテ様の母上が呪い師に頼んでそうさせたようです」
「ロシナンテの実のお母様がですか? ロシナンテは嫌われていたということでしょうか?」
「いいえ、違います。お嬢様にはまだ難しいかもしれません。他人から見たら理解できない方法で、子供を守ろうとすることもできるのです。母親というのは実に、強いですな」
そこまで喋るとアダムスは湖水の紅茶を口に含んだ。ふぅ、と一息ついた。
わたしの頭の中はものすごい速さで想像が行き交っていた。なぜ、母親が息子にひどい呪いをかけさせたのか? そしてそれがなぜ、息子を助けることになるのか? ······確かにわたしにはまだ、子を思う親の気持ちはわからないのかもしれない。
「今の皇帝陛下アルフレッド様が皇帝におなりになる時、まだ陛下と妃殿下の間にはお子様はいらっしゃらなかったのです。そうです、あのやんちゃなレイモンド様のことです。
ところがレイモンド様がお生まれになる前に、皇家の者がいるという噂が流れたのです。しかも直系であると。
時期というのは微妙な意地悪をするもので、その話が出た頃、妃殿下がご懐妊されたのです」
そんな話は聞いたことがなかった。もちろんわたしが生まれる前の話ではあるけれども、歴史的な文章の中にもその話はなかった。
「前皇帝陛下の直系というのは厄介ですな。後継者はアルフレッド様と決まってはおりましたが、それが脅かされる可能性もありますし、少なくともその者に皇室の者としての地位や暮らしを与えなければいけません。
しかも男であればその者を擁立する悪い輩がいて、皇帝陛下の椅子が危なくなるかもしれない。もちろん、陛下はくまなくその者を探しました。
探して見つけてしまえば、それ相応の物を、例えば領地などを与えて、満足させればいい。陛下はそれに賭けたのです」
「それで、見つかったのですか?」
アダムスはすぐに答えなかった。
少し哀れな目をしてわたしの顔を見た。その目はほかの老人と同じように、少し濁っていた。
「哀れな話です。前皇帝陛下はお年を召してからお子をなされた。そしてすぐに崩御された。生まれた子供はなんの後ろ盾もない。なぜなら母親は祭りの日に戯れで宮殿に召された占い師だったのですよ。北部の森深くにそういう部族がいるのです。我々の目に見えないものを信望して、予言を得る。
占い師は自分の子供の行く末を占いました。しかし、占いの世界では自分に近しい者を占うことができない」
「それではその子はいま――?」
「苦渋の決断でしたでしょう。その子は呪いにより、人間ではなくなりました。なによりも、母親はその子の命を最優先で守ることにしたのです。自分の命を対価として」
「お名前は『ユージーン』様。兄上に当たる現皇帝がアルフレッド様が継承権一位でした。現在、現行の法律のよるとユージーン様の継承権はレイモンド様の上、継承権第一位になります。
悪いことにユージーン様は男性でした。反皇帝派、つまり今の公爵家をよく思わない者たちから見たら、ダイヤの原石です。掲げあげてユージーン様を旗印に、今の皇室を失墜させるのです。公爵と共に。
ユージーン様の母親の占い師は呪いを我が子にかけてもらい、皇室派、つまり今の公爵、ホーネット家から離れたところに子供を託した。近いようでそここそが遠い。ホーネット公爵領に政治的に遠いのは――」
さぁっと血の気が引くのを感じた。
ロシナンテが人間ならと、あんなに切望してきたのに、いざそうだとなるとどうしてこんなに困惑するんだろう?
手放しで喜べばいいのに。
しかも、アダムスの言う通り本当にロシナンテがその『ユージーン』という人物なんだとしたら?
⋯⋯わたしから彼は遠のいてしまう。
◇
お父様がロシナンテを連れてきた日のことを思い出す。
表情の読めない丸い瞳。馬と変わらないきれいな毛並み。大人ぶっているのにかわいい尻尾。
「お嬢様」と呼ぶ、その少し硬い声。
あの日、遊び相手に、と連れてこられたのは本当は深い政治的な理由があって、そのためロシナンテは本人の資質が高かったとはいえ、半獣の中でも扱いが丁寧だったんだ。
それは『お嬢様』の『遊び相手』だったからではなく、本来は『宮廷の皇子様』だったから⋯⋯。
納得のいくこと、すんなりと頭に入らないこと、すべて混ぜこぜで、ロシナンテがわたしから遠くなる。手をのべても届かない場所に彼が行ってしまうような気がして⋯⋯。
「人間でも」とロシナンテはあの時言った。そしてロシナンテは人間だと知ってしまった。
――ああ。
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