第36話 湖面を渡る風

 ふたりきりになる。

 トキメキがないわけじゃない。どこか、不安なだけ。その絹のような髪に心が、縛られてしまいそうで。


 だってどんなに想っても、殿下とは別れる運命だ。お父様にそんな権力はない。わかってる。

 わたしなどは皇室から見たら足蹴にされて当然の娘でしかないことを。

 自分の分を弁えることをしらないわけじゃないんだ。


「今日は無口ですね」

「朝の空気が気持ちよいので」

「⋯⋯バルコニーの夜気がおすきなのかと」


 瞬時、振り向く。

 もしかしたら全部知っていてこうしている?

 表情を隠せるほど大人じゃない。小鳥が枝から飛び出していく。その美しい鳴き声を残して。

 ガーラント様はわたしを労わるようにやさしい目をしていた。


「あの方を止められる者はほとんどおりませんよ。確かにそうなんですが、それでもあの方が頭の上がらない者もいる。

 おわかりですね? どんなにあの方が熱望しても、貴女が皇帝陛下に謁見する時に隣にいるのは殿下ではないのです。残酷ではありますが」


「⋯⋯わかっております。こんなのは、ただの子供の遊びにしかないことを」

「聡明な方だ。ほかのレディなら、浮かれて自分の立場に酔ってしまいそうなものを」


「そうかもしれませんね。でもわたしはお父様の手の内ですし、それに⋯⋯こんなことを言うのは本当に情けないのですけど、アイリス様には敵いません。後ろ盾も違いますし、身分の差というのは越えられない壁でしょう」


 ガーラント様は黙ってしまわれた。

 面白い話では少しもなかったからだろう。わたしだってそうだ。こんな話をしたかったわけじゃない。

 不毛な散歩になってしまう。


「あそこにしましょう」


 湖にせり出した陸地に、丁度、大木の影がかかっている。その枝を広げてできた影は、木漏れ日を通してキラキラしていた。



 静かだ――。

 湖面は鏡のように平板で、小鳥が歌っている。

 その鳴き声は複雑で長い。恋の歌なのかもしれない。


「なにも考えないで済むでしょう?」

「ええ、静かな中に聴こえる音を探して」

「そうですね、なにも喋らずにいましょう。森を驚かさないように」


 しーっと、悪戯な小さい男の子のようにガーラント様はおどけて見せた。気をつかってくださっている。お陰で気持ちが楽になる。

 今にも手が触れそう。でも触れることはない。

 ガーラント様も気づいてないわけがない。⋯⋯わたしのことを思いやってくださっている。恥ずかしい。


 ここにずっといてもいいかな、という気持ちになる。この大樹のように、この地に根を張って。

 でも物事はそんなに簡単ではなくて、ガーラント様と結婚したら、この静かなかわいらしい城を出て、中央の城に移らなければならなくなるだろう。

 そうしたら、こんな静かな暮らしはできない。


 身分というのは難しいものだ。

 あった方がいいと誰もが言うけれど、それに縛られているような気もする。

 もしも爵位がない世界だったら――新名の世界にはなかったはずだ。それでも新名は自由な世界だったとは言ったことがない。

 水鳥が湖面に滑り降りる。

 このまま時間が止まれば⋯⋯。


「時間が止まればいいですね」

「かもしれません。狡いです、こんなに美しい領地をお持ちで」


 ガーラント様は笑った。そして自嘲気味にこう言った。


「見たではないですか。自然は美しいですが、人間が苦労なく生きていくには厳しい土地なんですよ」

「まだまだわたしには難しいことがわかってないみたい。恥ずかしいです」


「ニィナ様はそのまま、思うままにいらしたらいい。まだ重すぎる責務を背負う必要はないんです。素敵なデビュタントの想像でもしましょう」

「お母様がすべて決めてしまいます」

「ふむ。確かに一人娘のデビュタントは楽しみでしょうから、それは無下にできませんね」

「いいえ、それこそお母様にとってわたしは人形なんです。思い通りに動かせる」


 触れそうで触れない手が触れた。

 ギュッと手を握られる。力強く。


「貴方の相手が例えば私ではないとしても、どなたでも貴女をお守りしますよ。貴方はそれだけの価値があります。人間的で、美しい。時には守られることもいいことです」


 そう言えば、最近いつも意地を張っている気がする。こんなふうに肩の力を抜いて、もっと少女らしく振る舞ってもいいのかもしれない。

 誰もそんなわたしを責めたりしないだろう。


 お友だちを作って、アフタヌーンティーを楽しんで、憧れのパーティーについて話して盛り上がる。

 そんな、少女らしい時間。どこに消えたのかしら――?


「ガーラント様、わたし、普通の女の子に今からでも戻れるかしら?」


 そう言葉にしたら、涙が溢れてきた。

 こんなことってそうそうないので、どうしたらいいのかわからない。ただ、泣いてしまって恥ずかしいという気持ちだけが心を占める。


 突然泣き始めた少女をあやすように、彼はわたしを抱き寄せた。腕の中にしまって、背中を撫でてもらう。怖いことなどもうないと言うように、やさしく撫でられて、気持ちが落ち着いてくる。

 込み上げてくる想いは、ガーラント様の腕の中に消えていった。


「僕は貴女を泣かせない。お守りします。この湖と森にかけて約束しましょう」

「でもわたしは」

「今はなにも言わないで。いいですか、なにかがあったら必ずお助けします。だから安心してください。悪いことがあった時にも必ず呼んでください。忘れないで」


 幼い子供に戻ったように、しばらくの間、わたしは泣いた。ガーラント様は白百合の刺繍のされた美しいハンカチを手渡してくれた。

 白百合はきっと、ガーラント様のおすきな花なんだなと思う。だからきっとベッドサイドに。

 清廉で甘い香りを持つその花は、確かにガーラント様のようだった。


「少しは落ち着きましたか?」

「申し訳ありません、ハンカチを······」

「そのまま捨ててくださって構わないですよ」

「そういう訳には······」

「では次に合う時にでも、新しいハンカチをいただけたらうれしいのですが」


 口をつぐむ。

 わたしの刺繍の腕前は、まだ上等ではない。下手ではないと思うけれど、他人様に差し上げられる物ができるかどうか、自信がない。


「ご心配なく。お守りとして大事に持ちます。見せびらかしたりはいたしませんよ」


 耳まで赤くなるのを感じる。

 思ったことが言葉に出さずともそのまま伝わっているなんて。

 その目をちらりと見ると、にこりと微笑まれてしまった。『アイスプリンス』ではないけれど、この人は『王子様プリンス』だ。物語に出てくるあの王子様。


「どうかしましたか、ぼーっとされて」

「いえ、あの、今さらですがガーラント様はお美しいお方だなと思って······」


 こんなことを言うなんて、なんてバカげてる! ますます恥ずかしさが込み上げる。

 ガーラント様は堪えきれないという顔でくすくす笑った。


「そうですか。今まで言われた中で一番うれしいです。では美しいままでいられるよう、努力いたしましょう」


 完全にからかわれている。子供なので子供扱いされるのは仕方ないのだけど。


「そろそろ食事になりますかね。おすきなものは?」

「こちらでいただく物はすべて美味しいです。空気が美味しいですから」

「それはよかった。これもすべて、自然のお陰ですね。この季節にあなたをお誘いしてよかった」


 ガーラント様はその指先で、わたしの残した涙のあとをすっと拭った。


 ――時間が止まってしまえばいい。


 その時、風が湖面を滑って、柳の枝がたおやかに揺れた。

 問題はなにひとつ解決していないことを知っていながら、ただの女の子のように甘えてしまった。

 それを受け止めてくれる胸の広さに、わたしはきっとまた甘えてしまうに違いない。




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