第34話 葡萄畑
馬はなだらかな麦畑の中で先生たちに追いついた。
先生は久しぶりに見る故郷の姿に感動を隠しきれないようだった。
「ニィナ様、この地がまだ男爵領だった時代、農民は痩せた農地に鍬を入れ、少ない収穫の中から税を納めてきたのです。それがこの通り、きっと今年が豊作だからというわけではないでしょう。なんらかの方法で土を良くし、栽培にも工夫をしているのでしょう。見てください、このそよぐ麦畑を! これこそが治世の教科書の活きた一頁です」
ガーラント様はなにも言わなかった。うれしくもあり、照れくさくもあったのかもしれない。
でもこの自分の手で手に入れた実りを褒められたことは最上の喜びだっただろう。
「ありがとうございます。私はこの地域を任された時、まず、農民たちの貧しさに目を見張ったのです。貧しい者は、隣人に手を差し出すこともできません。そこで幾ばくかの助成と、種もみを配ったのです。幸い領民たちは私の気持ちに応え、自分たちの仕事に精を出してくれました。時には天候や、川の氾濫もありましたが、富める者は他者に施すことができます。皆が平等に富み、協力して農作業を行えるよう、施策をしていきました。もちろん、常に理想通りとはいきませんが」
「左様ですな。世の中には富める者と言えども、他者に手を差し出さない者がいるのが必定。それはガーラント様のせいではありますまい。人間が元々持ち合わせている本質のひとつです。お気になさるな」
ホッと、肩の力が抜けたような空気を感じた。
ガーラント様にしてみれば、王都での著名な政治学者であるアダムスは尊敬の対象に違いないし、その先生に褒められるというのは光栄なことだろうから。
ガーラント様のやってきたことが、認められた喜びが伝わってくる。
「問題ももつれた糸のように、時間はかかりますがひとつずつ丁寧にほぐしてやれば氷が水になるように溶けていくと信じております」
アダムスもまた満足げだった。
自分の育った土地が豊かになり、そこに賢く、人の心のわかる統治者がいる。その血でアダムスの家族は今、暮らしているのだから。
麦畑は永遠に夢のようにどこまでも続いて風に揺れていた。
◇
昼食は湖畔の葡萄畑に元々ある、農民たちも使う木のテーブルでランチをとった。湖までなだらかな丘になっていて、葡萄畑を目にしながら、湖も堪能できる、贅沢な場所だった。
「さすがにニィナ様のドレスを汚しそうですね。場所を変えましょうか?」とガーラント様は申し出てくださったけれど、丁重にお断りした。
わたしもまた、この国の豊かな緑の中で、農民の気持ちを少しでも味わっておきたかった。
わたしの領地······オースティンでは、富める者は富を逃さず、増やそうとする。誰かに手を差し伸べるより、その手を振り払うことの方が多い気がする。
そう思うと情けなさで、悲しくなった。
けれどもわたしは女に生まれてしまったので、内政に干渉するのは難しい。
この間は殿下の気まぐれで、オースティンの財政状況を王室にチェックしてもらったけれど、そんなことは度々できることではないし、官僚たちも馬鹿ではない。いつでも富を持って逃げも隠れもできる準備をしていることだろう。
オースティンの金貨は、そういった汚職をするものの袖の下に隠されているんだ。
泣きたくなる。
「ニィナ様、ご気分でも?」
「いいえ。どれも美味しそうなので、どれから食べようか悩んでいたんです」
「そうですか。それならこのチキンとマスタードのサンドイッチなどはいかがでしょうか。珍しくはないかもしれませんが、丁寧に育てたチキンの旨味が味わえるかもしれません」
それにそっと手を伸ばす。
わたしたちが畑を回って見ている間に食事は届けられていた。焼きたてのパンは香ばしい。
「美味しいです! でもウェーザーの空気がそもそも美味しいのかもしれません」
「お嬢様は街からほとんど出られたことはないですからな」
「それは。······確かにそうなんですけど。わたしはこういう世界の広がりは本の中だけのもので、目の前に手の届くところにあることを知らずにいたのです。とても恥ずかしい······」
ガーラント様は微笑んでいられた。
「お嬢様ほどの美しさなら、隠しておきたいのもわかる気がします」
とてもやさしい微笑みだったけれど、わたしは心の中に少し不服を感じた。
もっと早く街に出て、世情というものを知っていれば⋯⋯。
それでわたしになにができたというんだろう? ただの小娘に。
「先生、わたしくらいの歳頃の令嬢は世の中のためになにかしていらっしゃるのですか?」
「そうですな、孤児院などの貧困層の施設に寄付やボランティアをしたり、教会に募金をしたり、祭りの際に格安で屋台を出したり⋯⋯様々でしょうか」
「そうですか⋯⋯」
わたしは今までどのひとつについても考えたことがなかった。綺麗に整えられた城の中で、繰り返す毎日を送っていた。
習い事、散歩、読書、お茶の時間、⋯⋯。
領地民たちがどういうふうにして税を納め、わたしたち貴族がどのようにしてそれを使っているのか、考えたこともなかった。
だからこそ、歴史に興味をもてなかったのかもしれない。繰り返す毎日がわたしの『歴史』だったから。恥ずかしくて消えたい。
◇
「ガーラント様、よろしければお客様にご挨拶をしてもよろしいでしょうか?」
この葡萄園を栽培しているらしい農民がやって来た。真っ黒に日焼けして、被っている帽子に意味があるのかしら、と思うくらいだった。
ガーラント様はわたしをチラッと見たので、わたしは笑顔で応えた。
「こちらへ」
頭を低くして二人の男が現れた。「共同経営なんですよ」とガーラント様が説明してくれる。
「お嬢様、この度はわたくしたちの農園に来ていただき誠にありがとうございます。わたくしたち、ウェーザーの物を食べていただけたことを誇りに思っております。もし、ウェーザーにいらっしゃることが決まった暁には、ガーラント様同様、できる限りの歓迎をさせていただきますのでどうぞ、ぜひここにいらっしゃってください」
頭を深く下げて二人は下がった。ガーラント様は赤くなっていた。
「結婚についてはなにも言わない約束だったじゃないか?」
「でもこんなにお美しいお人形のような方を見たら、どんな者でも我が領地にお迎えしたくなりますよ」
「それは否定しないが⋯⋯」
赤くなって言葉数が少なくなってしまったガーラント様に代わって、アダムスが質問をした。
彼らはそれに抗うことなく、友好的に返事をかえした。
「共同経営とはどんな形で?」
「今は四家族一組でやっています。誰かが少し体調が悪くても代わりができるし、天候不順の際の立て直しも、協力し合えば効率よくできるので。お陰で子供たちを『学校』に行かせてやれます」
「『学校』?」
「はい、ガーラント様が始められて、七つになると子供たちは学校に行く許可が与えられて、文字や簡単な計算を学んでくるんです。
始めは働き手がなくなると困ると思っていたんですが、これが役に立ちまして。取引で間違いも起こらず、税をかさ増しして取られることもなくなり、去年と今年の収穫高を比べることもできるようになりました。
そのお陰で、去年よりいい葡萄の栽培がしやすくなったんです。ガーラント様には感謝しかありません」
わたしもアダムスも黙って話を聞いていた。
そこには、わたしたちが聞いたことのない物語があった。
農民を学校に通わせるなんて。王都でも考えられない。
「領地たちがよく働いてくれるし、計算を誤魔化すこともできなくなりましたからどこでも正しい商売ができる。その正しく納められた税を、学校の費用に当てているんです」
「なるほど、素晴らしいモデルケースですな。ガーラント様を私の研究室に引っ張っていきたいくらいだ。なぜ学校にいる間に、こんなに素晴らしい学生に気がつかなかったのか」
アダムスはシワだらけの顔を緩めて笑った。
まるでガーラント様が自分の自慢の生徒のようだった。しかし彼は俯いて、こちらを見なかった。
「⋯⋯お恥ずかしいのですが、私は王都まで遠いので、王都の貴族学校には通わなかったのです。家庭教師と書物、たまに旅の通りすがりに話をしてくれる学者にいろいろ教えてもらい⋯⋯ 」
「あなたは素晴らしい。才能に秀でていられる。中央で学ぶべきお方ですが、そういう訳にもいきませんな。こんなに領民に慕われていれば」
「そんなこともないです。しかし、王都に上がる気はありません。その前に、私の管轄外の領地をどうにかしなければ。彼らにも適切な仕事を与え、貧民率を下げ、生きていく喜びを与えてあげたい」
アダムスはその蓄えた髭を撫でて、難しい顔をした。なにが気に入らないのか、わからなかった。
「ガーラント様。葡萄畑は四人組です。では政治はいかがでしょう? 余計なお世話ですが、この爺の言葉を聞いてください。領地経営もひとりでは成り行きませんぞ。ここはまだ狭い。しかしウェーザー全部を同じ状態にするには歳月と決心が必要でしょう」
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