第33話 成り上がり

 リュートが悲しい物語を紡ぎ終わると、ガーラント様は「レディ、この想いを置いて今夜はもう下がりましょう」と部屋を出た。

 わたしの気持ちを思いやってくれたのか、それ以上強引に迫ったりはしなかった。


 ベッドに腰掛けてようやく落ち着く。

 あの事件の顛末はガーラント様もご存知だろうに、ベッドサイドには真っ赤な薔薇が飾られていた。華やかな芳香を放って。

 花言葉は『情熱的な愛』。

 あんなに大人しい方なのに。胸に秘めたものは別だと、そう言いたいのかもしれない。


 殿下の誘いはいつも気まぐれで、どこまでが本気かまったくわからない。わたしは翻弄されてばかり。その魅力に振り回されている。


 ヒューズ様は真正面から実直に嫁ぐことを望んでいると仰る。

 確かにヒューズ様との人生は刺激的だろう。でもわたしにとってヒューズ様は師であり、兄のような方だ。まだ恋というものの本質はわからないけれど、もしそれが熱いものなのだとしたら、この想いは違うかもしれない。

 でも、そんなものはなくても結婚とはやっていけるのかもしれない。人生の伴侶は恋とは無関係なのかもしれない。


 ――わからない。

 わたしは結婚よりも恋を求めてるのかな?

 経済事情や領地経営のことは忘れてしまって、ただ、愛する人に愛されたいのかもしれない。

 そしてそれが恋の本質なのかもしれない。

 守られたい自分もいるし、自分を守れる自分でありたい気持ちもある。


 ◇


 ああ、疲れた。

 お願い、ゆっくり休ませて――。

 薔薇冠の香りがする。くすぐったい。これを被らせたのは誰?

「しーっ!」と人差し指を立てたのは誰?

 庭園で薔薇冠をくれたのは⋯⋯。


 ◇


 ああ、薔薇の香りは花瓶から香っていたのね⋯⋯。だからあんな夢を見たんだ。

 懐かしいような、ただの夢のような。物語を読んだから想像が膨らんだだけなのかもしれない。

 どちらにしても、なんだかこの頃、薔薇はうんざりだ。それをくださる方の気持ちを踏みにじるようで申し訳ないけど。

 すべては殿下と赤い薔薇から始まったのだから。


 食卓に下りると、大きな窓のカーテンが開けられていて、一面に湖が見えた。素晴らしい景観だった。

 この城はなにかがあってもいいように堅固に作られているのに、こんな仕掛けがあったなんて気が付かなかった。

 前に来た時にも『お披露目』はなかったのに。


「先日いらした折は夏でしたから。陽射しはレディにはよろしくないでしょう」


 さらっとガーラント様は仰った。さすが、プリンスだ。


「あの、よろしければですけれども、葡萄畑や麦畑も見てみたいのですが」

「おお、それは私も同意見ですな。故郷がどのように変わったのかぜひこの目で見てみたい」


 ガーラント様はちょっと困った顔をしたけれど、なにかを閃いたようだ。わたしたちに笑顔を見せて、こう言った。


「それではご希望のものをご覧に入れて、湖畔でランチを取りましょう。城のものに用意させておきますから。もちろん葡萄も、それからこの土地の小麦で焼いた焼きたてのパンとケーキを用意させましょう」


 気のせいか、侍女たちがパタパタと走っていく音を聞いたような気がした。慌ただしくダイニングにいた侍女たちが減っていく。

 湖畔でのランチはとても素敵だけれど、もしかして用意が大変なんじゃないかしら、と不安になる。城の者たちの負担にならないといいのだけど。


 ◇


「パンを焼くには時間が要りますから」とガーラント様はわたしを自分の馬に乗せた。

 いつも誰かに乗せてもらうばかりのわたしは、乗馬くらい習っておけばよかったと恥ずかしくなる。つくづく自立心がなかったんだ。

『馬は人に乗せてもらうもの』というように自然に思っていた。


 でも聞くところによると女性でも乗馬もすれば狩りもする方がいるという。

 わたしはそういうことを女性がするのはと教わってきた。

 でも今は違う。ドレスの流行にながされて湯水のように税を使い尽くす方が余程と思う。

 自分の立場の不安定さを、歯がゆく思う。


「どういたしましたか? 乗り心地が悪いでしょうか? 少し休憩しましょうか?」

「⋯⋯ガーラント様、わたしに馬の乗り方を教えてくださいませんか?」


 ガーラント様は思ってもみなかったという顔をして、すぐにわたしに言葉を返した。


「レディに馬が必要であれば、いつでも私が」

「いえ、そういうわけではなくて、できないことの多い自分が恥ずかしくて⋯⋯」


 ガーラント様は馬を下りると、アダムス先生を乗せた騎士に先に行くよう伝えた。騎士は彼の意を汲むと、先生を乗せてゆっくり馬を走らせた。

 走り去る馬を見て、ゆくゆくはわたしも同じように走れるかしら、と不安になる。


「ニィナ様。こんなことを言うのは説教のようで気が引けるんですが、貴女はいろんなことに対して焦りすぎではないでしょうか?

 私が言うのも僭越ですが、例えば葡萄の栽培ひとつにしても、やろう、と思ってその次のシーズンに目的が果たされるものではないのです。もう少し長いスパンで物事を見た方がよろしいかと」


「わたし、焦ってるように見えます?」

「そうですね。いろいろな苦労がおありなのかもしれませんが、ひとつずつ解決なさってはいかがですか? 婚約者選びもすぐに『どっち?』というわけではないですよ。だからこちらもあちらもデビュタントをお助けしようと申し上げている。どっちか早く決めればお助けしますとは申しておりませんよ。まだ正確には十五ではないですか? もっと同じ歳くらいのレディたちと仲良くしたり、気軽になさっても誰も咎めたりしませんよ」

「でも⋯⋯領民が苦労していると知りながら、自分だけ楽しむわけにいかないではないでしょうか?」


 彼は自分のマントを木陰に敷くと、わたしにそこに座るよう、促した。申し訳ない気がしながら、言われた通りにする。

 なんだか、ガーラント様がいつもよりいっそう、歳上で聡明な方に見えた。


「ニィナ様は私がパーティーによく出ていることはご存知ですね?」

「⋯⋯人伝に」

「その通りです。ではなぜ積極的にパーティーに行くのでしょう? 巷の噂通りに、私が女性を物色していると思われますか? どうぞ遠慮せず本音を仰ってください」

「⋯⋯いいえ」


 わたしは彼の目を見て首を横に振った。

 以前のわたしならそう思ったかもしれない。けれども今、よく知った後では、そんな軽率な方とはもう思えなくなっていた。


「では? ⋯⋯これはお嬢様には少し難しいかもしれませんね。ニィナ様のお家は伯爵家ですから、公爵、皇家以外に頭を下げなければいけないところはありませんから」


 それは生まれてからずっと当たり前のことだったので、だからどうと言うのだろうと、続きを待った。

 夏と言えどもよく茂った大木の木陰はひんやりして、マント越しに少し冷えた。


「私の家は侯爵ではありますが、ご存知ではないでしょうが、所謂『成り上がり』なのです。元は小さい領地を治める男爵だったのですが、西部で反乱が起きた時に多少の功労が認められ、侯爵位を与えられたのです。そのため、ほかの貴族からはあまりよく思われておらず⋯⋯」


「まぁ、そんなことは! もしそれが本当でしたら、わたしの婚約者候補にお父様が入れるはずがありませんわ」

「そうですね。ですから私は貴族たちに顔を売っているわけです。ここに私がいて、我が家の領地があり、侯爵位があるということを。それから人脈を作っているのです」


 そんなことは考えたことがなかった。

 確かにわたしの世界では、王室と公爵家にだけ敬意を払えばいいとなっていた。なので特別、彼の言うように、顔を売って歩く必要はなかった。

 わたしはパーティーが嫌いでほかの令嬢との交流も消極的だったし、そもそもみんながわたしを知っていたから。


「人脈作りひとつ取っても、地道で時間のかかるものです。認められるというのは大変な苦労を伴う。うちでは父は侯爵になってから他人を敬うということを疎かにしていますから、私がやるしかないのです。この領地のために。

 ですから焦ってはいけませんよ。何事も下地をきちんと作って、それから少しずつ駒を進めればいい。一度に完璧なものはできないのです。――さぁ、話し込んでしまいましたね。美しい畑を見てください。私が少しずつ改良を進めた成果です。何年もかけたものなんですよ」


 ガーラント様からこんな教えを受けるとは思ってもみなかった。


 初めは見た目の華やかさ通りの方だとばかり思っていた。その後は真面目でそれでいて芯の通ったところもある方だとは思っていた。

 でも、これ程とは――。


 次期侯爵となると、こんなに勉強をなさったものなのか、いいえ、やはり彼自身が勉強家なのだと思う。尊敬に値する人のひとりを見つけた。


「いつまでも座っていては冷えてしまいます。ほら、お手がこんなに冷たく。さぁ、今度は馬から見える景色をただ楽しんでくださいね。わたしにとってはそれが褒美なのですから」


 ガーラント様が差し出してくださった手を取り、馬上に引き上げてもらう。

 さっきまでと景色が違って見える。

 あっちにも、こっちにも、ガーラント様の施した苦労が世界の眩さの中に潜んでいるように見えた。

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