第31話 熱い想い

 アダムスは遅れて明日やって来るとのことだった。誰かに会うのかもしれない。でもそれはプライベートのことだし、先生がわたしを窮地に陥れるような人ではないことがわかってるので、特に問い質すことはなかった。


 なので今日の客はわたしだけ、ということになり、ふたりだけの時間を過ごすことになる······。

 どうしよう、ドキドキしてしまう。

 ヒューズ様はあの通りの方だから、ふたりきりになってもそういうムードになるより、率直な意見が多い。

 殿下は。

 ――殿下はわたしの息の根を止めてしまうんじゃないかと思うほど、いつも突然現れて去っていく嵐のような人だ。ガーラント様とはまた違う。


 ガーラント様は、物静かでロマンティストだ。

 どのように振る舞うべきか、考えてしまう。まるで物語の中の少女のように。


 ◇


 少しするとわたしたちは湖上の人だった。

 湖は相変わらず鏡のようだったけれど、実際にボートで出てみると涼しいくらいの風が吹いていた。ショールの首元を寄せる。


「思ったよりもお寒いのではないですか?」

「······ええ、まさか湖面がこんなに涼しいものとは知らなくて」

「ニィナ様は本当にお姫様なんですね。あまり外に出られたことはないのでは?」

「······お恥ずかしいことですが」


 ヒューズ様も同じようなことを仰った。

 わたしは言われたように社会を知らない。知らないくせに、お父様やお母様を社会の尺度と照らし合わせてみていた。

 けれども世界は広くて、知らないことが多くて、お父様たちのことでさえ、貴族の間では娘を政略結婚の道具にするのは当たり前に本当に行われていることがわかってきた。


 それは必要な知識だったけれど、知らないままただのお嬢様暮らしだったら、と思うとやはり選べるなら知っていることの方が大切だろうと思う。

 なにも知らずに、着飾ってパーティーを開くだけの毎日に、わたしは埋もれたくない。


「どうしましたか、浮かない顔をして。憂い顔もお似合いですが」

「いえ、わたしって知らないことばかりだなと少し反省してたんです。これまでボートにさえ乗ったことがなかったなんて」

「それはご両親があなたを大切に育てられたからでしょう。ですからあなたは今も純粋無垢でいらっしゃる」

「······そんなこと、ありませんわ」


 ガーラント様がオールを漕ぐと、水面は太陽を映してキラキラと光を反射した。まるで割れた鏡のように、光は目に刺さる。

 さらにオールを漕ぐと、永遠に光は撒き散らされる。


「そうだ、ディナーなのですが」

「はい」

「ニィナ様はあまり好き嫌いがないと伺ったので、ウェーザーの物を主にするよう、献立をたててもらいました」

「まぁ、どんなものかしら?」

「ライオネスとはまた違いますよ。海辺の素敵なレストランもございませんし」

「意地悪ですわ」


 ふふっと彼は微笑んだ。

 ライオネスでの話がここまで届いているなんて、どうしてかしら? それならその場に殿下が現れたことも知っていらっしゃるのかしら?

 そう思って見つめていると、ガーラント様はオールを漕ぐ手を止めて、わたしを見た。湖水と同じ、透き通る青い瞳で。


「川魚のソテーを主菜に、キノコや木の実、それから山菜を含む野菜たちを使うよう、指示しました。明日は先生がいらっしゃるとのことですので、ウェーザーの伝統的な料理をお出しして、葡萄も食べていただこうかと」

「お気を使わせてすみません。でも、楽しみですわ! そういうお料理はあまり食べたことがないように思います」

「北部高地で少し酪農もやっているので、バターやチーズもふんだんに用意いたしました。ウェーザーではオースティンと違って北部にもあまりこれといった鉱山もないので」


 少し残念そうに彼はこぼした。

 確かに鉱山があれば、国は潤う。

 鉄や銅、鋼も良いけれど、金や宝石が出ればなおのこと。

 しかしそれは掘ってみなければわからない宝くじのようなもので、当たり外れが大きい。


 そのマイナス面を放置するだけではなく、そこに別の価値として酪農を取り入れた手腕は見事だと言える。それだけ領民がガーラント様を信頼している証拠だ。

 その土地に移り、酪農を始めた者もきっと多いはず。次期侯爵に、領民は敬意を払っているということだ。

 ガーラント様の言う通り、ウェーザーの土地は貧しいかもしれない。けれども元々あるものを生かし、価値を上げ、領民に率先して行動していく姿は領主として素晴らしい素質の持ち主だとわかる。


「ニィナ様にもっと特別ななにかをご用意できる領地だとよろしいのですが」

「まぁ、こうして初めての経験をさせていただけるだけでもとても特別ですわ。それに本当に葡萄も美味しかったんです」

「そうですか、ではアフタヌーンティーを楽しみに。新鮮な木の実をふんだんに使っております。ベリーの甘さもほかのものとは違うかと」

「ここにいたら太ってしまいますね」

「少しふっくらなさってもきっとおかわいらしいと思います。やわらかい頬は魅力的ですよ」


 天然なのかしら、とやはり思う。

 女の子の喜ぶことが、ガーラント様にはギュッと詰まってる。それでも今までどなたともお話がなかったのはなぜかしら?


 ◇


 温室でアフタヌーンティーをいただいていた時だった。少しだけ、という条件でバイオリンを演奏していただく。

 美味しいお菓子と美しい音楽で、お腹も心も満たされる。素敵なひととき。


「お待ちください!」という一言で状況は一変した。

「お待ちください! リリアナ様」

「ガーラント様! ひどいです、婚約なさるなんて! 爵位がそれほど大切なのですか? わたしたちの共に過した長い時間の思い出は、捨ててしまわれるのですか?」


 後ろから侍女がリリアナと呼んだ彼女を捕まえようとするけれど、彼女は身をよじって逃げようとする。

 こちらに近づいてきた時、ガーラント様はスッと立ち上がった。その顔は本当に氷のようだった。


「リリアナ、悪いけれど僕の気持ちはニィナ様のものだ。申し訳ないが帰ってもらえないか。僕は君をそういう対象として見たことがない。一族のひとりとして接してきたつもりではあるが、それは兄が妹の面倒を見るようなものだ」

「そんな! それだけであんなにやさしくしてくださったとは思えませんわ。ボート遊びも、ピクニックもお願いすればいつでもご一緒してくださったではないですか? たくさんのお花を送ってくださったことも何度も······」


 リリアナという、わたしと年頃の変わらない少女はポロポロと泣いた。両脇を侍女たちに押さえられて。


「先日もお友だちとのお茶会で、ガーラント様に選ばれるのはきっとわたしだと皆さん仰って。次のパーティーのパートナーはきっとお誘いがかかるんでしょうって」


 ガーラント様は目線を下げてなにか考え事をしているように見えた。彼女との思い出が頭の中を掻き乱しているのかもしれない。

 この逡巡は、彼女への想いを表しているように思えて、自分がいることが間違っているように思えた。


「わたし、席を外しますわ。おふたりでよく話し合われた方がよろしいかと。邪魔者は下がっておりますから」

「ニィナ様······申し訳ありません、ですがほんの少しだけお時間をいただいても」

「もちろんですわ。ここにいるとディナーまでに満腹になってしまいますもの」


 では失礼、とお辞儀をして席を外した。彼らが見えなくなるとアンは「別にお嬢様が下がる必要はないんですよ」と言った。

 アンにとってはわたしが伯爵令嬢で、ほかの女の子よりひとつ上の位にいるのだという意識が強いんだろうけど······わたしは自分が身分的に上位にいると思いたくなかった。


 それよりも、ふたりだけの思い出をうらやましく思う。

 わたしとロシナンテにもあるそれを。

 だけどわたしたちの間に、ああいう想いはない。なぜなら人と半獣として結局、分けて接していたから。子供の時分でさえ、ロシナンテはロシナンテで、人間の子供ではないと教えられてきたけれど、つまりわたしも実のところではそう思っていたという証だろう。


 泣きつくほど強い想いはどこからやって来るんだろう? ガーラント様を失いたくない一心でここまで来た彼女のことを思うと、複雑な心境だった。

 わたしとガーラント様の間にあるものは、政略結婚と呼ばれるものに過ぎない。例えそこに愛が芽生えたとしても。

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