第30話 さざ波

 微睡みの中、あの方の夢を見る。

 浮遊感。

 惹かれてしまうのは当然だ。そのうち国民すべてを虜にしてしまう人だもの。······だとしたら、やっぱりこの気持ちはまやかしかもしれない。

 古よりまだ伝えられし魔術が残っていると聞く。殿下の魅力は大輪の薔薇の香りのようだ。強く香って、忘れられない――。



 アンが部屋に入ってくると、手紙の用意を頼んだ。なにか急用があるのかと、アンは慌てて取りに行った。


『ガーラント様

 何度もお手紙をいただいているのに、煮え切らない返事ばかりで申し訳ありませんでした。

 先日、いただいた葡萄、大変美味しくいただきました。

 実はわたしの家庭教師をしてくださっている先生はウェーザー侯爵領出身だそうで、この時期に葡萄が採れるなんて、ととても驚いて美味しく召し上がっておりました。

 よろしければ彼と一緒に、森と湖の静かなお城に伺ってもよろしいでしょうか?

 楽しみにしております。

 ニィナ』


 あの領地境の城には侯爵様はいらっしゃらない。ガーラント様にお会いすることは別に苦ではない。

 たまには緑に囲まれてもいいかもしれない。夏も終わりだ。湖畔の風は思ったより冷たいかしら······。

 最近はあちこち出ていてなんだか放浪者のようだ。


「お嬢様、どちらのドレスをお持ちいたしましょうか?」


 アンがクローゼットを開けてドレスを見せてくれる。相変わらず、たくさんのドレス。

 このドレス一着でどれくらいの食べ物が買えるのかしら? あの、港で働いていた半獣たちはお腹いっぱい食べているかしら?

 波の音が聴こえる⋯⋯。

 気持ちが落ち着く。


「そうね、ミントグリーンのものを中心に、寒色系はどうかしら?」

「わたくしはお嬢様はかわいらしい方がよろしいかと」

「そうかしら?」


 わたしたちの押し問答は単なる遊びになっていった。ドレスを押し付けあって、笑う。どっちが似合う、あっちが似合う、と。


「やっぱり水色のストライプのと、青い地に銀糸のものは持っていきましょう」

「ガーラント様のためのドレスのようですわね」

「からかわないでよ」


 あの誠実な方に少しでも報いなければ、という気持ちが心をよぎった。

 伯位継承に頭を悩ませ、苦悩するあの人はとても傷つきやすく繊細なように見える。亡くなったはずのお母様が心配そうに、彼の背中を見ているようだ。

 まだ、少年のような芯の硬さを秘めている。


 アイスプリンスなんかじゃなくて、傷つきやすい人だ。他人を傷つける人じゃない。


 ◇


 ガーラント様の居城は我が領地との境に近いこともあり、ガーラント様が直々に馬で迎えに来てくださった。そして、ここでまたロシナンテと別れる。

 この前はそれを悲しく思った。半獣だからといって、なにがいけないんだろうと。

 でも今は少しホッとしてる自分がいる······。身勝手で冷たい人間なのかもしれない、わたしは。


「お待ち申し上げておりました! 我が領地はやはり田舎でニィナ様のお気に召さなかったのかとやきもきしていたところです」


 珍しくコミカルな口調でそう言って、彼は自然に微笑んだ。リラックスしてる。いつもそうしていた方が、わたしには何倍も魅力的に見えるのに。


「そんなこと、ありませんわ。静かな森とその湖畔の城に憧れないなんて、ありませんもの」

「ほう、ではライオネスより魅力的に映りますか?」


 わたしは困ってしまった。

 そんなこと、答えられるわけがない。

 わたしにはまだふたりを天秤にかけたりする権利はないと思うから。


「その困り顔が魅力的ですね、マイレディ」


 そういうところがさらにわたしを困らせるんだけど······わざとなのか、それとも天然のものなのか······。

 女性の気を引くために身につけたテクニックというわけではないと思うので、これはこの方の性質なんだろう。


 湖畔でひとり、あの石組の城に住んでいて、さみしくないのかしら、とふと思う。

 お母様を亡くして、お父様、お兄様とも離れ。

 ······わたしも同じようなものか。

 お父様もお母様もわたしを『道具』としてしか見てくれないし、お兄様にいたっては、自分の出世のために殿下と······なんて。

 わたしもさみしいかもしれない。


 小枝にとまった小鳥のさえずりが、すぐ近くに聴こえては、姿を見る前に飛び去ってしまう。

 あの小鳥には家族がいるのかしら? 暖かい巣があるのかしら?

 そうならいいのだけど。

 アンが「もう少しですよ」と声をかけてくれる。わたしが馬車に飽きたんだと思ったんだろう。


 確かに最近、馬車にはずいぶん乗った気がする。その度に自分の世界が広がっていくのを感じる。白地図に、それまでなかったはずの色彩が見えて、この世界が一色モノトーンではないと、そう教えてくれる。

 この、湖からの川沿いを上がればすぐにガーラント様のお城が見えてくるはずだ。


 ◇


 わたしが馬車を降りると、ガーラント様のその優雅な動きがピタッと止まった。


「お久しぶりです。どうかなさいましたか?」

「いいえ、その、水色のドレスにエメラルドのブローチがよくお似合いで。この城を取り囲む風景と⋯⋯その」

「ええ、イメージを合わせてみましたの。合っていますか?」

「とても。ニィナ様の美しさもまた増したように思います」


 久しぶりの訪問だったので、気を使ってみたのだけど、好評だったようだ。

 ⋯⋯結局わたしはどう考えてもあの侯爵がすきになれず、この方を遠ざけてしまっている。決してガーラント様が悪いわけではなく、わたしの我儘なだけなのだけど、彼と結婚したらと考えると。

 ――ロシナンテには会えなくなる。


 ロシナンテは人間になれるじゃない、とふと思う。

 でもあれは「なれる」だけで二十四時間、なれるのかはわからない。

 なんだか、宙ぶらりんだ。

 気持ちだけが浮いている。


 所詮、選ぶなん無理なんだ。

 どうしてわたしのような人間が、ほかの人間を選ぶことができよう。

 それならいっそ、お父様かお母様に⋯⋯有り得ない。ふたりはきっと条件の良さで嫁ぎ先を決めてしまうだろう。

 人間性などは考慮せず。


 久しぶりに新名が顔を出して、わたしの肩をそっと押した。

 そうだ、わたしには新名がいる。ひとりではない。勇気を持たなくちゃ。


 ◇


 湖水は当たり前だが鏡のように美しく、荒々しく波だったりはしなかった。当たり前だ、海じゃないんだから。

 貝殻を拾って熱い砂浜を拾う。それだけのことが懐かしく、そして自由だったように思う。

 ヒューズ様は、ガーラント様と歳の頃もそれほど変わらないけれど、経験の分なのか、とても大人に思える。


 自分からここに伺ったのに、こんなことを考えているなんて不謹慎だなと思う。


 それならヒューズ様のところに素直に嫁げばいいと思うのだけど⋯⋯理性だけでなんとかなるものでもないらしい。

 波音が聴こえない。

 潮風があの日のランチを思い出させる。わたしの理性はあの方にだけは通用しない。


 身分が尊いから?

 それとも見目麗しく、目立つ方だから?

 人心掌握の術を心得ているから?


 わからない。

 これが『恋』というものなのかもわからない。

 わかるのは、誰に聞いても答えはもらえないことだ。

 湖面を風がやさしく撫でて、波立つ。

 ここは、すべてがやさしい。ガーラント様のやさしさでできているみたいだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る