第29話 誰にも言えない
「一つ目の質問ですが、半獣が人間になるとお困りでしょうか?」
「いいえ、そんなことはないです。わたし、ヒューズ様に社会見学に連れて行っていただいたのですけど、半獣の扱いはひどいように感じました。人間のしたくない仕事まで回されて······。
幸いライオネスではヒューズ様が目を光らせておりますので、そこまで酷くはありませんでしたが、半獣たちは人間と同等に思われていないのは伝わってまいりました」
「ではすべての半獣が人間になれるならその方がよろしいと」
「······そういうことになると思います」
ふむ、と先生は外の景色を見て、なにかを考えている。
「難しい話をすれば、政治的にはもし半獣が人間になったとしても彼らの扱いが飛躍的に向上することはないでしょうね。社会とはそういうものです。
そして半獣はやはり半獣であり、社会階級で上位になるほどの知力を持ち合わせる者が少ないのも事実です」
「そんな!」
「いいですか、半獣に生まれたくて生まれたわけではないのですよ、彼らは。しかし例えば私が男であり、ニィナ様が女であるように、半獣も神の計らいでそのように生まれたのです。これは彼らが不幸であるかというかという問いとは違います。
半獣の地位向上をすることはできるでしょう。力のある者を取り上げていけばいいのですから。しかし、半獣だからといって、『かわいそう』なわけではないのです。おわかりかな?」
わたしは自分の驕りを指摘され、胸が痛んだ。そうだ、それは彼らの問題で、半獣に生まれたら不幸に決まってるという考え方はおかしい。
彼らにだって、彼らの生活と彼らのしあわせがあるに違いない。
「申し訳ありません、浅はかでした」
「うむ。上の者から見た下の者の暮らしは、決してすべてを変えた方がいいほど不幸ではないこともある、ということですな。
けれどもライオネスは置いておくとして、半獣が見合わない扱いを受けているのは確かですな。残念ながらオースティンでは下働き以上の仕事をさせてもらえるのは稀ですし、ウェーザーでは半獣の出入りが禁止されている。······嘆かわしいことです」
「皇帝陛下はどのようにお考えで?」
「······陛下のお気持ちは、この爺にはわかりかねますな」
そう言うとアダムスはもう話すべきことはない、という顔でお茶をすすった。
けれどもわたしはそれでは済まなかった。本当の目的があることを忘れてはいなかった。
「どうぞ、頭がおかしくなったと思ってくださって結構です。わたし、見たんです。······ロシナンテが人間であるところを」
アダムスはカップを下ろした。
そこになんの驚きも感じなかった。寧ろ、待っていたかのように見えた。
「ニィナ様、ロシナンテ様が気になりますか?」
「それはもちろん」
「しかし世の中には知らない方がいいことも多いのですよ」
「······そうかもしれません」
「どうでしょう、この爺にロシナンテ様について語る資格があるでしょうか?」
老人の目をしたアダムスは、遠い過去を見つめているように見えた。
その、細々と切れ端になった記憶を繋ぎ合わせ、どう言葉にするか、迷っている。先生ともあろうお方が。
「秘密が――秘密があるのです。これを知る者はほんのひと握り。今では宮廷でも知る者は稀でしょう。ロバのロシナンテ――それがあの方だと、みんな、そう認識しておりますからな」
秘密とはなんだろう? 好奇心が刺激される。
一方で、それをロシナンテが知られることを嫌がるかもしれないと考える。こんなに一緒にいたのに黙っていたことだ。知られたくないのかもしれない。
どちらが正しいかわからない。
けれども大概、好奇心は身を滅ぼす。
「わかりました。事情は彼が話したいと思うまで、待ちたいと思います。わたしたちの間にはそれくらいの絆があると思うんです」
「······ほう」
「でも、あの、ロシナンテが急に人間になった時、わたしはどうしたら良いのでしょう?」
「ひとつ言えるのは、まず、ロシナンテ様もひとりの殿方であるということですな。油断をしてはなりません。ほかの殿方同様になさってください」
強く、うなずく。
心のどこかでそれに反発する声が上がる。やっぱりロシナンテはロシナンテなんだと。
でもその意識を変えていけと、先生は仰ってるんだ。
「ふたつめは、お困りならその時、私のところにお連れください。あの方は聡明ですし、事の次第はご理解なされているでしょうから」
これにもうなずく。
誰にも見せないように、できるだけ迅速にここに連れてくればいい。きちんと慌てないように心に留める。
「それから、これはニィナ様に非常に言いにくいのですが」
「なんでも仰ってください。ロシナンテはわたしの大切な友人なんです」
「ではひとつ。――殿下にはなるべくお会いしないように。理由はお聞きなさるな」
老人はそれ以上、語らなかった。机の上の、日に焼けた臙脂色の本の表紙を触っていた。
あの厚い本には、どんな秘密が隠されているんだろう。
世界には、わたしの知らない秘密がどれくらいあるんだろう?
そら恐ろしくなる。
知識の扉は、開けるべきではなかったのかもしれない。わたしを苦しめる知識があるかもしれないと、用心すべきだったのかもしれない。
◇
その日から、わたしは誰にも言えない秘密を抱えることになった。
それはひとつの胸に収めるにはとても重く、胸が潰れそうだった。
ベッド脇にまた、そっと菫が飾られている。ロシナンテが散歩中に摘んだのだと、アンは言っていた。
また、花はわたしの瞳の色と同じものだけ選ばれていた。
ライオネスに行ったならウェーザーにも是非、と再三、手紙がやって来る。
社交界のアイスプリンスは情熱的な人だったらしい。
お父様に相談すると、ガーランド様に会ってくるといい、と機嫌よく勧められた。お父様にしてみたら、ライオネスにもウェーザーにもいい顔をしておきたいんだろう。
中央からは官僚が派遣され、我が領地の監査が行われた。いくつかの証拠が見つかり、いくつかは不自然に廃棄され、いくつかは巧妙に改ざんされていた。
そのために解任される者は多かったが、一番の問題である財務長官はその席に留まった。彼は賢く、巧妙だった。
お父様は中央からの監査に礼を尽くして、晩餐を用意した。
それは必要なことかもしれない。
けれども、財政が不安定だとバレた以上、見栄を張っても哀れなだけだ。お父様はそういうことに疎い。
お兄様も中央の官僚に顔見知りがいて、大変ご機嫌だった。
一体、わたしはなにを見ているのだろう、と頭痛がした。
◇
「やあ」
するりと閉めたはずの窓から入ってくるのは、どうやら得意技らしい。わたしももうため息ひとつで受け入れるようになった。
「うちの者たちはよく働いたかな?」
「そうですね、感謝しております」
「······ずいぶん、他人行儀じゃないかい?」
月の出ない夜に現れた来客は、ソファに躊躇いなく座った。
「困ります。婚約前の男女は、このようにお会いしてはいけないと······」
「ふぅん、そうか、ニィナも大人になっていくんだね。そうか、婚約前か。確かにそうかもしれない」
殿下は少し物足りない顔をした。けれど、それでいいのかもしれない。殿下にわたしはそぐわない。
殿下はソファの上で靴のまま、膝を抱えた。明日の朝、アンがカンカンに怒るかもしれない。
「ニィナは僕が誰と婚約しても気にならないのか? 僕は君が誰を選ぶのか気になる。僕がその辺の適当な家柄の息子なら、君に狂ったように手紙を送って求婚しただろう。けど」
「それ以上、なにも仰ってはいけません」
わたしは彼のおしゃべりな唇を指で閉ざした。彼はわたしの手首を掴むと、なにを思ったのか手首に噛みついた。
「痛い!」
思わず声が出て、彼は人差し指を立てて「しっ!」と言った。涙が滲む。きっと傷になる······。
「ごめんね、君を僕のものにしたいんだ。今ならまだ『皇太子』というカードを使えるから。手首にキレイに歯型がついていたらいいな。······乱暴にしてごめん」
その手首に唇をつけて、わたしが涙ぐみながら驚いている時に唇を唇で塞がれる。
誰に言われなくても『いいことではない』のはわかってる。でも、『わかってる』のと『できる』のは違うんだ。
わたしもソファの上に膝で乗って、もう一度唇を重ねた――。薄い夜着の肩を殿下は抱いた。
そうしてわたしの手首に金糸の刺繍の入った絹のハンカチを巻いた。「悪かったね」と。
誰にも言えない想いは、悲しい。
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