第28話  夢を見た

 血の気が一瞬引いた。

 そして、急に鼓動が強く、速く胸を打つ。


 一体、なにを見たんだろう? 白昼夢?

 ロシナンテは――わたしの知るロシナンテは。あの男性と一緒なの? あの横顔、いつか見たような⋯⋯。


 意志の強そうな、深いブラウンの瞳。

 その目はいつもわたしを見ていたような気がする。わたしを、見守ってくれるやさしい瞳。

 でもなぜ?

 なにが起きているの? ⋯⋯不安になる。わたしの知らないところでなにかが。


 ◇


 軽やかなノックはマーサだった。

 マーサはご機嫌で、目を細めてにこにこしている。


「さぁ、お嬢様、お湯をどうぞ。いつまでも潮風をまとっていらっしゃるのですか? それともライオネス伯に惹かれていらっしゃるのかしら? 

 まぁ、わたしのかわいらしいプリンセスならどなたでも心惹かれるでしょうから、選択権はお嬢様にあるんですよ。

 ふふ、いつかわたしも殿下にお目にかかりたいですわ。というのは、秘密のお話ですわね」


 踊るような足取りでマーサは入ってくると、急に足を止めた。


「ニィナ様?」


 わたしはクッションを抱えていた。

 頭の中はぐるぐる回っていて、思考回路がおかしい。

 いいえ、起こったことがおかしい。


「ニィナ様? あの、どこかお体の具合でも」

「マーサ⋯⋯」

「どうなさいましたか? なんでも仰ってください」

「マーサ、わたし、どうかしてるのかしら? ロシナンテが」

「ロシナンテ様がいかがしました?」


 頭がおかしいと思われるかもしれない。それともみんな、実は知ってるのかもしれない。なにを?


「⋯⋯ロシナンテがね、子供の頃、あの童話集のあの巻を高い棚にしまってくれたんですって」

「ああ、あの巻にはお嬢様のおすきなお話と、嫌いなお話がありましたから。ロシナンテ様は昔からお優しい方ですから」

「そうね。マーサにもう一度、会えるようにしてくれたんだもの」


 幻。

 そうだわ、幻だった。あれは幻だったと、そう思おう。だって、ロシナンテは出会った時から半獣で、そのせいで不条理な扱いを受けることも多くて、そしてわたしにやさしくて――。


 彫りの深い顔を思い出す。もしもロシナンテが人間だったらどんなにいいだろう! 子供の頃、わたしはよくそう思った。

 ロシナンテはなにかある度に「半獣ですから」と同じセリフを繰り返し、わたしはそれを面白くないとずっと思っていた。


 でもほら、もしもロシナンテが人間だったら?

 ――それを真剣に考えたことは一度もなかった。だって、わたしにとってロシナンテは半獣以外の何者でもなかったから。そう区別していたのは、実はわたしだったんだ······。


 実際にロシナンテが人間になってみたら、それは怖いばかりだった。

 周りにいる殿方から、本当の意味でわたしを守ってくれていたのはロシナンテだった。なのにそのロシナンテが人間だったら······。


 ◇


 湯浴みをした後、ディナーに呼ばれる。

 小さい館のいつもより小さいテーブルはかわいらしくて微笑ましい。

 ひとりで食べるのはさみしくて、マーサを誘うとあっさり断られてしまった。

 テーブルの上には心のこもった温かい料理。

 いつもならロシナンテを呼ぶところだけれど――あの後、ロシナンテを見ていない。


「マーサ、ロシナンテはどこに?」


 マーサは一瞬、ごくんと喉を鳴らしたのをわたしは見逃さなかった。


「······ロシナンテ様は用事ができたそうで、少し出かけると言って馬に乗って出て行かれました」


 目線を合わせず、彼女はそう言った。

 なにもなかったわけじゃない。たぶん、なにかがあったんだ。――わたしの知らないなにか。だって普段、ロシナンテは馬を使わない。ロバは馬には乗りませんから、とはぐらかす。


 でもここではどうも知らないフリをしていた方が得策のように思えて「そうなの」とにっこり微笑んで、シルバーを手に取った。


 ◇


 ベッドに入ってからも頭の中はロシナンテのことばかりで。

 それはそうだ、こんなに近くにいてなんでも知ってるつもりだった彼に、もしかしたら大変な秘密があるかもしれないなんて――。


 夢の中でわたしは馬上にいた。

 馬は気持ちよく走り、殿方はムチを軽く入れた。


 空を飛んでいるような、爽快な気分だった。

 わたしを支えるその人は、まるでわたしの気持ちがわかるかのように馬を走らせる。馬は緑の中を、イバラを避けて走り抜ける。

 くすくすと楽しくて仕方ない。わたしの笑い声に低い声が呼応した。


「お嬢様、もう少し走らせましょうか?」

「ええ、ロシナンテ。とてもいい気分なの」


 見上げた顔は逆光でよく見えない。わたしは手で太陽を遮ろうと思うけど、馬の上だから、片手を離すわけにはいかない。


「⋯⋯ロシナンテ?」


 その人はなにも答えなかった。

 ただ、彫りの深い横顔が、風になびく茶色い髪が、そうなんじゃないかとわたしに思わせる。


「ロシナンテ⋯⋯」


 答えはない。黙って彼に掴まる。

 馬から振り落とされないように。


 ◇


 目覚めるとわたしは馬上ではなく寝台の上にいた。ギュッとしがみついていた感覚が手に残ってる。でも、ロシナンテが馬に乗るのは特別な時だけだ。

「ロバが馬に乗るのはおかしいでしょう」と常々口にしている。

 必要がなければ乗らない。

 昨日は必要があったんだ。


 ◇


 マーサとお別れして、帰城する。そこにロシナンテの姿は無い。不安がわたしを包む。落ち着かない。


 着替えてすぐ、わたしはアダムス先生のところに向かった。先生はなにかの書物に埋もれるように読書をされていた。


「おお、申し訳ありません。まったく気付かないとは」

「それだけ夢中だったっていうことですよね。先生はわたしが書物に夢中になっていても怒ったりなさらないでしょう?」


 くすくす笑うと、先生は「一本取られましたな」と仰った。


 ◇


「心配事ですか」

「⋯⋯そんなところです」


 俯くわたしを先生が哀れみを含んだ目で見ている。わたしって、そんなにかわいそうに見えるかしら?

 もしそうだとしたら、それは自分から悲しみを背負い込んでるからかもしれない。


「お話して楽になるなら、いくらでもお聞きしますよ」


 いつものように穏やかな声で先生は囁いた。

 洞窟のような本に囲まれた部屋で、わたしは縮こまって椅子に座っていた。


 ◇


「⋯⋯先生、半獣が人間になるなんてありませんよね? どうぞわたしのおかしな妄想を笑ってください」


 先生は髭を撫でると「ふむ」と言って、考え始めた。言葉を選んでるのがわかる。


「まずなぜ『おかしな妄想』と仰られるのか」

「だって、小さい頃から『半獣は半獣』と教え込まれてきましたし、実際ロシナンテが人間であったら、どんなに頼もしい友人になるかと思ったことは何度もありましたけど、叶いませんでした」


「なるほど。お嬢様には半獣と言えばロシナンテ様しかいらっしゃらないですからな」


 下を向いて、ちょっと照れくさい気持ちになる。要するにロシナンテのことを相談しに来たと、先生にはバレバレだ。


「では今も、ロシナンテ様が人間なら、とお思いで?」

「それは⋯⋯。ロシナンテにとってはもちろんそうだと言えますし⋯⋯」

「ご自分は?」

「あの、⋯⋯なんとも言えません。ずっとそうだといいなとおもっておりましたが、実際の話となると」


 アダムスは興味深そうにわたしを見た。わたしはとても彼の目を見ることができなかった。

 厚いビロードの緑のカーテンは半端にしか開かれてなく、光が帯のように部屋を照らす。


「もし、ロシナンテ様が人間なら不都合でも?」

「あの、幼い頃からずっと一緒におりましたから、気恥ずかしくもありますし⋯⋯」

「ははは、それは確かにあるでしょうな。仲の良かった男女でも、しばらく離れてから再会すると恥ずかしさがあるものです。そういったものでしょうかね?」

「さぁ、男女のことはわかりかねます」


 ますます体温が上がってくるのがわかる。汗をかいている。この場に来なければよかったかもしれない。


「時に、ひとつめの疑問ですが――」


 わたしは顔を上げて、しっかり彼を見た。両手をギュッと握りしめて。





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