第27話 薔薇冠の姫君

 わたしはすぐに城に戻らなかった。ロシナンテがそう判断したからだ。すぐに帰るとウィルヘルムお兄様がいい顔をしないだろうと。

 公爵領から離れたライオネス領寄りの館が用意されていた。普段は誰も来ない、こじんまりとした。


「まぁ、お嬢様! 本当にいらっしゃるなんて、この目で見るまで信じられませんでしたわ!」

「わたしもよ! まさかマーサがここにいるなんて。元気? 今はなにをしてるの?」


 マーサは首を傾げて手を上げると、困った目をして笑った。


「どうもこうも。お嬢様に家庭教師がつくようになって、お払い箱になりました。ロシナンテ様がここの管理をするように取り計らってくださったんです。なにしろ誰もいらっしゃらないので、自由にやらせていただいてます。それでお給金をいただけるのですから、素晴らしい仕事ですわ」


「そうだったの⋯⋯。いかにもお母様のやりそうなことね」

「そんなご自分を責めるようなお顔をなさらないで。死ぬ前にもう一度、お会いできただけでもわたしは満足ですから。かわいいプリンセスが立派な伯爵令嬢に育ちましたわね。お母様の判断は正しかったのですよ」


 やさしく抱きしめてくれる。体が覚えてる感覚。

 軽い浮遊感を感じる。

 心が暖まる。


「ロシナンテ様、本当にありがとうございます。一生分の願いが叶いましたわ」

「あら、安いお願いね」

「そんなこと、ありません。お嬢様がわたしの人生のすべてだったんですから」



 こじんまりした、かわいらしい部屋に通される。

 ベッドカバーはピンクのパッチワーク。枕元にテディベア。本棚には美しい装飾の童話全集。あの頃の子供部屋のような。

 並べられた本の背表紙を指で1巻から順になぞる。

 読んだ物語のひとつひとつを思い出す。――ああ、お姫様と王子様の物語。貧しい少年の冒険譚、不思議な旅行記、魔法や天使⋯⋯。


 その中に、お姫様と王子様の物語もあった。

 まるでこの世界のように、それはひと握りだけの物語。


「あら、その巻は何回お読みしたかしらね。何度もねだられて。特にお姫様と王子様の物語は覚えるほど読みましたね」

「よしてよ、マーサ。子供だったの。自分は大きくなったら素敵なレディになって、王子様の迎えを待つんだって、そう信じてたの。今思うと馬鹿みたいね」

「そうでしょうか? 少なくとも素敵なレディにはおなりになりましたわ」

「そんなことないわ、まだまだよ。わたしにデビュタント大人の世界はまだ早いわ」

「まぁ⋯⋯」


 マーサは手に取った本をテーブルに置くと、わたしにソファに座るよう勧めた。ピンクの小花模様のクッションが置いてある。全部、子供時代に戻ったみたいで、全部、ピンクは殿下の薔薇を思わせる。


「⋯⋯お嬢様、ごめんなさい。お嬢様の現在抱えている事情を、実は」

「聞いたの?」

「ええ、さぞかし心を痛めていらっしゃるのでしょう」


 こんなふうに誰かにやさしく抱きしめられたのはいつ以来だろう? 殿方とは違う温もり。やわらかくて、わたしを悪いことから包むような。


「けれど、いざとなればロシナンテ様がいらっしゃるから大丈夫ですよ」

「⋯⋯そうなの?」

「ええ、そうですよ。ロシナンテ様がいらっしゃればお嬢様は神の御加護を受けたも同然です。というのは少し言い過ぎですね」


 ふふふ、とそのふくよかな丸顔でマーサは笑った。微笑みの本当に意味するところがわからなくて、頭の中が混乱する。


 ――一体、ロシナンテは何者なんだろう?


 どうして今までそれを深く考えてみたことがなかったんだろう? 突然、お父様が連れてきた『半獣の少年』。幼かったわたしは、彼をそのまま受け入れた。


 半獣でもなんでも構わなかった。


 遊び相手になってくれて、話し相手にもなる。頼めば一緒にアフタヌーンティーの席についてくれたし、なんにも疑わなかった。

 だって、ロシナンテがいる限り、わたしは『ひとり』ではなかったから。


「お疲れなのではないですか? 潮風はこの領地の者には珍しいものですが、あの塩気に体は晒されるわけですから」

「⋯⋯そうね、そうかもしれないわ」

「湯浴みの用意をさせましょう」


 マーサはいそいそと部屋を出た。

 お行儀が悪いと思いながら、子供の頃のようにソファに横になって、クッションを枕に童話集を読む。頁が薄く色づいているのは、この本は本当にわたしの子供時代に読んだ本、そのものだという証拠だ。


 どの話もそこから文字がこぼれてきそうに見えた。

 頁をめくる。

 白い馬に乗った美しい王子様と、長い髪が波打つ、薔薇の冠を被ったお姫様が偶然出会う。


 偶然⋯⋯。

 今思うと出来すぎだ。

 誰にも相手にされないわたしに手を差し伸べてくれたのは、王子様だったなんて。物語じゃないのに。


 どうしてそれが現実になったのに、少女の頃のように素直に喜べないんだろう? わたしは知らないうちに大きくなって、自分がお姫様ではないことを自然と知った。

 そう、わたしはお姫様じゃないんだ。

 薔薇の冠はないし、殿下の馬は黒毛だし。


 ⋯⋯そういう理屈っぽいことばかり。結局、わたしは殿下が怖い。だから逃げてるんだ。


 トントントン、とノックが正確に3回。ロシナンテのノック。

 こんな格好では会えないので、とりあえず体を起こす。「どうぞ入って」とソファに座り直す。


「お疲れでしたね」

「ええ、馬車は疲れるわね」

「お嬢様、髪が乱れております。マーサがお湯の用意をしておりました。湯浴みのあとはごゆっくりなさってください。ディナーの前に起こしにまいります」

「ありがとう、気をつかってくれて」


 ロシナンテはテーブルの上に置かれた童話集を手に取った。そしてパラパラと頁をめくる。


「懐かしいですね」

「ロシナンテはこれを知ってるの?」

「ええ、お嬢様の本棚にはあったではないですか? 一緒に読みましたよ。もっともお嬢様はまだ文字をあまり知らなかった頃ですが」


 意地悪、と思う。生まれた時から文字が読めたら天才だわ。ロシナンテに出会った頃、わたしは本当にまだなにも知らなかった頃で⋯⋯。


「ほら、この話。嘘をついた少年が悪魔に捕まって、知恵を使ってそこから逃げ出すと⋯⋯」

「神の手が、光の中から現れて、『自分は嘘をついてない』と神の助けを懇願した時に、光は消えていくのよね」

「お嬢様が怖がった話です。頁を開くのも嫌がって」

「そうしたらロシナンテが棚の高いところにこの本を⋯⋯」


 確かにそうした。「神様に近いところにしまいましょう」と。わたしのすきだった王子様とお姫様の物語も入っていたのに――。


「わたし、『薔薇冠の姫君』がとてもすきだったのよ」

「そうだったんですか。仰ってくださればもっといい方法を考えましたのに」

「いいえ、いいの。もう昔のことですもの⋯⋯」


 そうよ、過ぎ去ったことにこだわることはない。ロシナンテがこの本を高い棚にしまったことは、きっと正しかった。そうじゃなければわたしは悪魔を怖がって泣いただろうから――。


 ね、と顔を上げると、そこにはダークブラウンの瞳と髪を持つ、鼻筋の通った眉のラインの美しい男性がいた。ストレートの絹のような真っ直ぐな髪は、肩につくほどではなかったけれど、キレイな髪だった。

 思わず息を飲むような――。


「あ⋯⋯」

 彼は本から顔を上げると、わたしの方をやさしく見た。

「お嬢様? いかがなされましたか?」


 困った顔をした彼は眉根を寄せた。眉間にしわが寄る。

 彼の、濃い茶色の瞳の中に、わたしが映る⋯⋯。

 自然に手を伸ばし、その髪に、指が触れそうになる。わたしの指が彼の髪をさらりと揺らした。


「⋯⋯ロシナンテ?」


 彼は「あ!」と驚くと、自分の両手を見た。そして足の先を見た。


「違います。お嬢様、違うんです。申し訳ありません。失礼いたします」


 慌てて彼は裸足のまま、部屋から出て行った。ドアが閉まる音が、大きく響いた。彼の動揺は、わたしの動揺を誘った。

 あの人は――。


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