第26話 良い風は吹くか?
殿下の顔には、悩み事があるとはっきり書いてあった。
それは多分、わたしのように幼い娘がどうにもできないことで、きっと解決の難しい問題なのだろう。
「殿下、馬車を⋯⋯」
「ライオネス伯、手を貸してくれないか? どうか中央に来て僕の仕事を手伝ってくれないだろうか? 僕には有能で信頼のおける者が近くにいない。君の見事な政治手腕を貸してもらえるなら、僕のすぐ隣を君に預けよう」
「もっと、色っぽいお話かと思いましたが。そのような評価、いただけるのは大変光栄ですが、見ての通り、若い娘ひとりに翻弄される馬鹿者です。殿下のお役に立てるかどうか。それにニィナ嬢の兄上がいらっしゃるではないですか? 側近になさるのでは?」
殿下は深くため息をついた。
その目は憂いていた。
「ニィナ、ウィルヘルムを取り立てなかったら僕を恨むかい?」
「まぁ、なぜそのようなことを。わたしは女ですから、殿方の政治に口出しはできませんわ」
今度は彼は上を向いて、額に手を当てて笑った。
大きな笑い声だった。わたしは自分のしたことを反芻しなければならなかった。
「ニィナ、君がどれくらい勉強しているのか、僕は聞いてるよ。その辺の男子より余程、優秀で見込みがあると。ライオネス伯の元に嫁いだら、伯からさらに政治を教わって、夫婦で見事な領地経営をすることになるだろう。それも楽しみのひとつではあるが。
⋯⋯諦めたくないことが、僕にだって人生にひとつくらいあっても罪にならないだろう?」
真っ赤な瞳は海辺の燦々とした光に照らされて、いつも以上に鋭く輝いて見えた。
いつも通りロマンティックなように一見すると見えたけれど、それ以上に、少し怖かった。この人に飲み込まれてしまうんじゃないかと、そんな気がした。
アダムスの警告は、単に一般的なものではなかったようだ。殿下は、恐ろしい。
「とは言え、せっかく用意された昼食会を僕がすべてダメにしてしまうわけにはいくまい。邪魔者は退散させてもらうよ。
しかし伯、さっきの話は冗談ではない。事情が変わった。僕の周りのすべてがひっくり返るかもしれない。その時はぜひ僕に力を――。伯が実利主義であることはわかっているが」
「殿下、細かいことまでお話になっていただいたのに、これでは味方にならないわけにはいかないではありませんか。ましてニィナも聞いていた。よかったら私たちの『フランク』の会に入りませんか?」
ヒューズ様はいつも通りの笑顔でそう仰ったけど、わたしの顔面は蒼白だった。この人は、殿下相手になにを?
「はは、想像以上に面白い方だな。どちらかと言えば君の方こそ『フランク』に頼むよ」
「じゃあ、殿下。まだ時間があるようなら、最後まで食事を」
半分、腰を上げた殿下は、その言葉に腰を下ろした。
「護衛に追いつかれると面倒なことになるかもしれないけどいいかい? 僕個人としては、君たちと楽しく海産物を楽しみたいんだけど」
「その時はその時。しかし、殿下が我が領地まで女を追いかけてきたって噂になっても俺は知りませんよ」
「⋯⋯僕の弱点を突いてきたね」
「一応、公爵家とはお隣同士、つき合いがどうしてもある。ニィナのためにも、その問題を解決してあげてほしいところなんですが」
殿下の瞳は陰っていた。その眼差しは傷ついた少年のようだった。楽しい昼食会にはとても参加しているように見えなかった。
「⋯⋯なんでも知ってるね? その件も含めて、相談させてくれない?」
「俺は構わないけど、中央の政治に関わることならニィナの先生の知恵をお借りした方が早いのでは?」
「アダムスは⋯⋯統治者なるもの、我儘ばかり通すようでは困ると」
「教科書通りの回答だ。ということは俺たちはその上の答えを出せばいい」
「簡単に言うね」
「この、守備にまったく向かない領地を守るのは簡単なことじゃない。冗談にならない。いつ公爵に食い物にされるかわからない。だからいつでも一歩先を見据えろ、とそういう訳」
殿下は「君を尊敬するよ」とそう言った。それに応えてヒューズ様は山盛りの殻を剥いた蟹を差し出した。
「こういうところがマメな男がモテるんですよ」
「なるほど。次の機会には殻の上手い剥き方を教えてもらおう」
ふたりは青い空が抜けるような大きな声で笑った。
知らないうちにお二方はずいぶん親しくなってしまわれたらしい。
お腹いっぱい食べて、ほどほどに飲んだ後、使用人たちと食事を今日は共にしていたロシナンテがすっと現れた。
「殿下、お遊びはここまでで。馬車が到着しました。護衛の方も食事を済ませられましたし、お戻りになっては? 伯とは親睦を深めていたとでも仰って」
「さすが、見事な采配だ。確かに今帰るのがいちばん波風が立たなさそうだな。ロシナンテ、いたのなら食事を共にしてほしかったな」
「半獣でございますから」
「なにを言う。ほかの者が見た目でそう言ったとしても、僕は君を知っているよ」
「⋯⋯お戯れを。馬車の者をあまり待たせませんように」
こうして殿下はお帰りになることになった。
ほかの人の目もあったので、特にロマンティックなことはなにもなかった。なにもなかった、けど。結ばれた視線が切れるには時間がかかった。
潮風の中に、まだ青くて苦い薔薇の匂いがほのかに漂った気がした。
「殿下、今度は砂浜を皆で歩きましょう。少し熱い思いをするのも一興です」
「いいね。そのニィナが着てる短めのスカート、ライオネス流なんだろうけど、それを着て、ニィナも靴を脱いで、皆で歩こう」
じゃあね、と気取るところもなく、いつも通り、殿下は馬車に乗った。いかめしい顔をした数人の護衛のついた馬車の中で殿下は見たことのない、冷たい、無表情な顔を見せた。真っ直ぐ前を見据えて、こちらを振り返ることはなかった。
「なるほど、そう来たか」
ヒューズ様は腕組みをすると、馬車の中でそう言った。さっきの話のことかな、と思う。
ふたりの間ではわかり合える話題だったらしいけれど、わたしにはさっぱり見当がつかなかった。
殿下について回ってるお兄様でも、こうして家に戻されるところを見ると、お仲間には入れてもらえないようだ。きっとお兄様は話についていけないんだろう、わたしのように。
「ニィナ、お前の殿下は面白いな。どうも先生の言葉通り、まだまだ子供のようでいらっしゃる。お支えする必要があるかもしれないし、ないかもしれない。な、ロシナンテ。お前はどう見る?」
「半獣の意見など意味を持ちません。しかし、殿下には暗い雲が王宮の窓からは見えるようですな」
「まぁ、王宮の窓は大きいからな」
ふたりの会話はまったく理解不能だった。
文字通り、不穏な空気が漂っているということはわかるけれど、それ以上の詳細はわからなかった。
どうも、このふたりにはそれがわかっているようだ。
「ふむ、帆を膨らませる良い風が吹くか、嵐が来るか。――その時はロシナンテ、お前はどうする?」
「ヒューズ様、私はあくまで半獣です。それ以上でもそれ以下でもない」
「その考えを改める時が来る覚悟を、精々、しておくんだな」
「⋯⋯お嬢様の前ですから」
そうだな、とヒューズ様は仰った。
わたしの知らない秘密がある。
いいえ、わたしはなにも見ないで今まで生きてきた。でも、今こうして、遠いところまで見ることのできる目を持っていることに気づいた。
ここから先の自分に期待するなら、自分の目で物をしっかり見なくちゃいけない。
⋯⋯ロシナンテの秘密も。なぜうちに連れてこられたのか。なぜ殿下と知り合いなのか。なぜ⋯⋯。
それはこれから解けばいい問題だ。
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