第24話 殿下、殿下、殿下
先生はやさしくわたしを慰めてくれたけれど⋯⋯わたしも庭園の薔薇も、絹のように細い雨に晒されているような心地だった。
薔薇は雨に弱い。庭師泣かせの季節だ。
庭園のデルフィニウムもルピナスも終わっていく。
殿下の薔薇も、花びらを散らしている頃かしら? 赤い、悪戯すきな瞳がわたしを釘付ける。唇のやわらかさが、ふと、戻ってきたような気がして、口元に手をやる。
「雨の季節になりましたな」
ロシナンテが不意に現れた。わたしは温室でティータイムを過ごしているところだった。
「座ったら? 今日はマカロンが当たりよ」
「食べ比べたんですか?」
「ええ、もちろん」
「財政難はご婦人のウエストサイズの変化から始まるとご存知で?」
⋯⋯笑えない冗談だった。
ロシナンテの前でこんな顔をしたくなかったけれど、涙はわたしの思いとは関係なくポロポロと溢れてはこぼれた。
「ニィナ様、殿下がおすきなのですか?」
「どうしてそんなことを言うの?」
次々と涙が頬を濡らす。
「王家と繋がりができれば、どこへ嫁がれるよりたくさんの援助が受けられるでしょう」
「でもこれからも不正を見逃していくの?」
「王家と繋がれば、そうも行きません。自治が認められるとしても、財政には手が入るでしょう、今のままであれば。次期皇太子妃がお望みなら」
『次期皇太子妃』という言葉はわたしになんの感情も起こさなかった。わたしの望みはそんなものじゃなかった。
ただ、この領地の不正をただしたい、その一心で。
「もしも、もしもお嬢様がお望みなら、私が宮殿に取り次ぎましょう」
ロシナンテは真面目な顔をしてそう言った。
なんの冗談を言っているとかと思い、自然、涙も止まる。どうしてそんなことを言い出したのかまるでわからない。
ロシナンテは自分が半獣だということをよくわかっていて、貴人に会うことを避けていた。なのに、どうして?
「おわかりにならないでしょうね。実は私はあの日、王宮からこちらへ参ったのです」
「⋯⋯え?」
「私は本来、王宮の者なのです。とはいえ、幼い時に出てきたので、大した伝手はありませんが」
ロシナンテの言葉をそのまま飲み込むことができない。なにを言われたのか、あまりに想定外で受け入れるのに時間がかかる。
王宮に半獣がいたとして、それは多分、最下層の下働きだろう。
「信じられませんか?」
「だって、そんなことをいきなり言われても」
「殿下だって先日、たまには帰るよう、仰ってたじゃないですか」
記憶を探る⋯⋯。あの、襲撃の日、確かに殿下はロシナンテに個人的に声をかけたかもしれない。王城に帰るようにと。
「なぜ殿下と知り合いなの?」
「それは私になぜ半獣なのかを問うのと同じことです」
そう言われてはなにも言えない。ロシナンテが半獣なのは、ロシナンテのせいじゃない。ただそう生まれてしまったからだ。
ほかにも半獣はいないわけではない。
ウサギやネコ、イヌなどいろいろな半獣がいる。人間に忠実な半獣は喜ばれ、貴族の屋敷で下働きとして雇われることもある。
そうでないものは、平民のように畑を耕すか、残念なことに平民以下の生活を強いられる。
わたしにはロシナンテがすぐそばにいたので、半獣に対する偏見が少ないが、半獣を人間以下だと見下す人も多い。
例えばウェーザー侯や、お兄様などがそう。自分と同じテーブルに着くことは考えられない、食事時に同じ部屋にいることも考えられないという人たちだ。
ゆえに、半獣が人前に出るのは難しい。
なのに、ロシナンテは『王宮』との繋がりを口にした。⋯⋯ロシナンテと殿下の親しさ、どう受け止めていいのかわからない。
「殿下にご連絡がある時も、よろしければ私をお使いください」
「ちょっと待って! どうしてロシナンテが?」
「ニィナ様、人には秘密があるものです。それが例え半獣でも」
納得がいかないけど、そこまで言われるとなにも言えない。わたしはまたため息をついて、お茶を口に含んだ。
◇
『ニィナ様
困り事があるんじゃないか?
たまには遊びに来て羽根をのばすといい。
文句を言いたいヤツには言わせておけばいい。ウェーザー次期侯爵と俺は正式な婚約者候補だしな。
俺に都合のいい考え方で言えば、ここでうちに来れば俺が優勢だと周りに思わせられるからな。
折れる前に来いよ。
ヒューズ』
◇
ぽかん、としてしまう。
さすがヒューズ様は考えることが違う。しかも誘い方が大人。
そうやって言われたら⋯⋯甘えてしまいたくなる。ヒューズ様はそういう人だ。
広くて寛大なヒューズ様そのもののような海を見に行くのも、頭を冷やすにはいいかもしれない。潮風はつまらない悩み事を吹き飛ばしてくれそうだ。
うちの財政難についてはどうも殿下が上手く手を回してくださったようだし、お兄様も帰ってこられたし、わたしの仕事はここにはないのかもしれない。······殿下にお会いする理由も機会ももうないのかもしれない。
かりそめの夢。そこから自分を解放してもいいのかもしれない。
◇
「なんだ、まだ育ってないじゃないか!」
そんなに簡単に育つわけないじゃないですか、とブツブツ言いながらエスコートされて馬車を下りる。まったく! 背が低いのは自分が一番わかってるから。
ライオネスの本城は高台にあって、バルコニーから港や大きな帆船が見えると聞いていた。
あとで、自分の部屋に通された時の楽しみに取っておこうと決めている。
「よお、ロシナンテ! 元気にしていたか?」
「お陰様で。伯爵ほどではございませんが」
「他人行儀だな、俺たち、もっと親しいだろう?」
ふーん? そうなんだ。ヒューズ様とロシナンテが個人的におつき合いがあるなんて知らなかった。でもまぁ、わたしはロシナンテのすべてを知ってるわけではないし。······寧ろ、知らないことの方が多いかもしれない。王宮の話とか。
それに関しては考えれば考えるだけ混乱するので、事実が知らされるその時まで、待つことにした。きっと真っ直ぐに言えない事情があるんだろう。
わたしにも、言えない事情が。
「とりあえず屋敷に入ってこの荷物をどうにかしないとな。女は荷物が多くて敵わない」
アンが少しムッとした顔を見せる。わたしはアンの袖を少し引いた。
この人はそうは言ってもそういうつもりではないんだから。
「なにも持ってこなくてもよかったんだ。ニィナのものは大概、用意させてある」
「ドレスや靴のサイズは?」
「前回来た時にこっそり、な」
憎めない方だ。先回りするなんて、ちょっとズルい。
「せっかく領地を出たんだ。伸び伸びしろ。あのイカれたウィルヘルムも帰ってきたらしいじゃないか?」
「お兄様をご存知ですか?」
「パーティーで何度か。お互い領地も近いし、知らないフリと言うわけにはいくまい」
殿方の世界のことはわからない。
それは、殿方が女性の世界のことをよくわからないのと同じことだ。わたしはお兄様のことがもっと知りたかった。
「イカれてますか?」
ヒューズ様は大きく目を開いてわたしを見た。そして、そんなこと言ったか、と訊ねた。
「あー、そうだな。自分のことより殿下の話の方が多いのは異常だろう? 女も無視して『殿下、殿下』だ」
「⋯⋯殿下の?」
「そうだ。レイモンド殿下付きの者になりたいらしい。領主としての人生をどう考えているのか、俺にはわからんな。だからニィナがこんなに苦労するんじゃないかと、この前、王都に行った時に思ったよ。似てるのは見かけだけだな」
お兄様は確かに殿下の話しかしない。殿下のなにがそんなにいいのかしら? 生まれ持ってのカリスマ? それとも権力?
でもあの方はたぶんそんなことでは振り向かない。
殿下の信じるものは多分、自分だ。
「おいおい、少しは遠慮することを覚えろよ。それから隠すこともな。『殿下でいっぱいです』って顔に書いてある」
思わず唇を指で触ってしまう。
頬が熱くなる。
ヒューズ様の言葉は逆効果で、殿下のお声や振る舞いなどを次々と思い出してしまう⋯⋯。想ってはいけない人だと皆が忠告してくれてるのに。
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