第22話 不肖の弟子

「······君がどれくらい賢いのか、僕の歴史の先生が教えてくれてね」

「まさか、アダムス先生ですか?」

「やっぱり君のことみたいだね。時折、僕の話し相手になってくれるんだ。僕自身が見聞きしたことと、歴史上の出来事を比較して分析してくれる。

 彼がアカデミーから退いたのは僕を教えるためだったんだ。悪い事をしたと思ってる。もっと学問を追求したかったんじゃないかな?」


 アダムスは量の多い白いヒゲと、白くて太い眉毛に顔が覆われていて、表情はよく読めない。

 けれど決して悪い人ではないし、わたしが令嬢だということに関わらず、時には厳しく知識を授け、考えるよう促してくれる。


 アカデミーに戻りたい、と聞いたことはまだない。実際はもう歳なので、わたしを最後の生徒にしたいと何度も言ってはヒゲの裏で笑った。


「殿下のところに参られるなら、殿下がおすきなんだと思いますわ」

「そうだといいけどね」


 なんとも言えない空気が漂っていた。

 開け放たれたままの窓から、そのいい空気が逃げてしまうのではないかと心配になる。

 満ちかけた月が、まだその時ではないことを告げるようだった。


「どうやら僕らには縁があるようだね」


 やさしい声で小さく囁かれて、心臓が飛び跳ねそうになる。こんな時に普通にしていられる女の子はいないと思う。

 だってまるで本当に、小説のようで······。


「しかもロシナンテもここにいる。僕たちの縁は余程硬いよ。君が望むと望むまいと関わらず······。

 伯爵にはそれとなく、官僚の不正を正すよう、意見しよう。父上から話が出れば、伯爵も調べないわけにはいくまい。

 アダムスはそのことでニィナが傷つくんじゃないかって心配していた。でも王家からの一言には伯爵も無視はできない。そして君だって、結果が良ければ矢面に立って傷つく必要はないんだ。

 ――この通り、僕の持ち物なんて『王家』という名前だけなんだよ。それでも良ければ僕のことを······」


 殿下は手袋を外すと、わたしの頬にそっと触れて、耳の裏に指を差し込んだ。

 わたしにはその意味がよくわからなかった。

 なので月明かりを反射する殿下の瞳に見とれていた。真っ直ぐに――。


「そろそろ時間だね。こんな時間に突然すまなかった。早く公の場で会えるよう、がんばってみるよ」


 チュ。

 唇に、唇の感触。

 とはいえこの時まで、唇で人肌の温度を測ったことはなかった。それはいつも儀礼的なもので、挨拶でしかなかったから。

 その温かくてやわらかい感触は、拭い去ることができず、わたしは熱を持て余していた。

 こんな夜は眠れない······。


 ◇


 殿下がいらっしゃったことは、何人かが知っていたけれど知らないことになっていた。もし皆に知られてしまったらそれは大事おおごとになってしまうし。

 そしてわたしはいつまでも夢心地だった·····。世界は花が匂い立つように広がり、無限にわたしに夢を見せた。まるで万華鏡のように。


 ノックの音でロシナンテだとわかる。

「どうぞ、入って」と言うと、ロシナンテの後ろから現れたのはアダムス先生だった。悪い事をした後のようにドキッとする。実際、先生から見たら『あってはいけないこと』だろう。


 先生は促されて一人がけのゆったりしたソファに沈むように座った。座り心地が気に入ったらしく、太い眉が下がっている。

 わたしは先生と向かい合うように座ると、その話を待った。


「なにも言わんでもいい。レイモンド殿下のことでしょう。どうぞあの方に惑わされませんよう、お気をつけていただきたい」

「なんのお話でしょうか?」

「私は誰にも話したりしないから、信頼していただきたい。

 あれも不肖の弟子の一人でしてな。悪い子ではないが、突拍子のないことをして人を驚かせるところはよろしくない。生まれ持った悪癖と呼べるでしょう。

 もっとご自分の責務を意識していただかなければいけないところですが、この爺の言葉ではお耳に届かないようで。まだまだ一人前というにはお子様でいらっしゃるところが多い」


 先生はそこまで語ると、テーブルの上にある葡萄を一粒つまんで口に入れた。

 わたしが黙って見ていると「すきなんです」と言った。ドキッとする。


「子供の頃から葡萄がすきでして。私は育ちがウェーザー領で、葡萄畑が延々と続く斜面を見て育ちました。アカデミーに行くまでの話ですがね。それで時々、不意に葡萄を食べたくなる。······しかし今は葡萄の季節ではないのでは?」

「ウェーザー候爵が特別に時期をずらして実を結べるか、試していらっしゃるらしいです」

「ほう、候も頭が堅いだけの人物かと思っておったが、きちんと施策をしているようですな」


 実はそれを提案して指揮を取っているのはガーラント様だった。先日、季節外れの採れたての葡萄を三房、届けてくださった。


 ◇


『ニィナ様

 こちらは夏が迫ろうとしております。木立の涼しさが恋しくなりましたら、我が領地にいらしてはいかがでしょうか? 葡萄の実を見つめていると、その澄んだ紫色に貴女を重ねてしまいます。私のすべてを貴方に。

 ガーラント』



 今朝届いた手紙にまだ返事を書いていない。

 殿下からの手紙も満足に見ていないのに。返事をしないとまた不法侵入されてしまうかもしれない。うちのシステムでは、誰一人殿下の侵入を拒むことができない。


「ニィナ様はどこを目指していらっしゃいますか? それによって、この老いぼれも目的を見据えなくてはなりません。

 確かに殿下や宮殿は煌びやかで心躍るものでしょう。しかしその前になさりたいことがあったのでは? そして殿下はわかっておられるのか、公爵家との縁談は断るのが非常に難しいでしょう。

 ニィナ様には申し訳ないですが、政治というのは今まで教えた通り、複雑極まりないものなのですよ」

「⋯⋯理性では理解しているつもりです」


 アダムス先生は頭を抱えて、ため息をついた。

 そのため息は、大きくて深かった。


「ニィナ様がこの家の嫡男であれば、などということは口に出してはいけないことですが。知的で理性的、そして向上心がある。僅かまだ十六におなりにならないのに、女性に生まれたことがもったいないと感じますな。

 ⋯⋯しかし、嫁ぎ先では立派な女主人になることは間違いないでしょう。この老いぼれが保証しますよ」


 ふぉっふぉっふぉ、とヒゲの下から笑われて、釣られてわたしまで笑ってしまう。知的で理性的、とは言い過ぎ。だって今も殿方たちの間で翻弄されてるんだし。


 理性的だったら······ときめきもリセットできるんじゃないかしら?


 覚えてしまったときめきを、どうやって忘れたらいいのか。それはきっと先生に尋ねても答えが返ってこないに違いない。


 あの、美しいピンク色の薔薇の芽が、わたしの心に根付いてしまったように思える。

 それはあのロマンティックな夜の魔法のせいだったのか、それともあの方が特別な方だからなのか、それがわからない。

 いっそただの夢なら、なにも悩む必要がなくなるのに――。

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