第21話 宵闇の訪問
呼び鈴がなってまずやって来たのはロシナンテだった。部屋の空気が重くなる。お父様はロシナンテに言い含めるように話し始めた。
「ロシナンテ、お前が幼い頃からニィナの世話をよく見てくれているのはわかっている。しかし、ドレスの請求書をレディが見るというのはどういうことだろうか?」
ロシナンテは頭を垂れて一言「申し訳ありません」と言った。
悪いのは全部わたしなのに、ロシナンテが怒られるのは間違ってる。第一、ロシナンテが見せてくれたのではない。わたしが勝手に夜中の執務室に入り込んで盗み見たんだ。
「お父様······」
「ニィナ、淑女はドレスの代金を知る必要はない。それはすべて紳士が払うものだからだ」
「では! では······淑女の選んだドレスの代金を紳士が払えなかったらどうするのですか?」
「お前はそんなことを気にしているのか。だからそれは私に任せなさい。今だって私の言う通りにしていたら、ウェーザーとライオネスから資金援助の話が来てるじゃないか。
だからお前はなんの心配もいらない。自分の一番美しいと思うドレスを着てデビュタントに出ればいい。それでこそお前の美しさに相応しい社交界デビューだ。もしかすると皇太子殿下もお前を見初めるかもしれない。既にその兆しもある」
「お父様はガーラント様やヒューズ様がお出しになってくださったお金で買ったドレスを着て、皇太子殿下に見初められるようにしろと、そう仰るのですか?
ひどいわ! ガーラント様もヒューズ様もとてもいい方なのに競わせるようなことをして、その上でほかの方の気を引けと、そう仰るのですか?
あんまりだわ! お母様の贅沢の穴埋めをほかの殿方たちにさせて、お父様こそお母様のドレス一着の代金をご存知なのかしら?
それに比べてこの家の使用人たちの賃金や領民からの税の取り立てを考えたら、わたし、木綿のドレスで構いません! いいえ、デビュタントもいらないわ。誰にも令嬢と呼ばれないで生きていきます!」
「いい加減にしないか!」
ダン、という重い拳の音が机を打った。
お父様が本気で怒るのを、初めて見た。
ロシナンテはわたしの前にさっと出て、頭を深く下げた。
「お叱りならお嬢様の代わりに私を。お嬢様の責任は私の責任です」
お父様は身を乗り出していたけれど、ロシナンテの言葉を聞いてドサッと椅子に腰を下ろした。
「······バネッサの贅沢はわかっている。
わたしを庇うように立っているロシナンテの前に出て、お父様の手を握りしめる。お父様は顔を上げず、震えていた。
「お父様、率直に話をせず申し訳ありませんでした。わたし、ヒューズ様のところに行ってから、歴史、経済、政治について学んできました。結婚して領地を離れるにしても、優れた女主人は領地経営ができなければと考えたのです。
この領地は今、経済状況がよくありません。お母様の贅沢もそうですが、官僚による書類のごまかしによって不正も行われているようです。
お願いです、わたしにこの領地の正確な経済状況を教えていただけませんか? 花嫁修業の一貫だと思って」
お父様はふらりと立ち上がると「ロシナンテ、後は任せた」と部屋を出ていかれた。疲れた顔をしていらっしゃった。······全部、わたしのせいだ。
「お嬢様、お気持ちはわかりますが、事を性急に進めるべきではありませんよ。通るものも通らなくなります」
「わかってるわ」
ドレスを翻して部屋を出ようとすると、気持ちを察したのか、ロシナンテはついてこなかった。でももう一人のわたしは、ロシナンテにそばにいてほしかった。
それはニィナと新名、二人の気持ちだった。わたしたちは寄り添うように心の中で自分を呪った。
◇
バルコニーからの景色は見慣れた庭園だけだった。ここにはなにもない、というつまらない鬱屈とした思いが胸を巡る······。
わたしって、本当に馬鹿だ。
「返事がなかなか来ないから、来てしまったよ」
素早く振り向くと、そこには金髪の紳士が立っていた。いつの間に部屋に入られたのか、扉の開く音も気づかなかった。
紳士は月明かりだけを頼りに、こちらに向かって歩いてきた。夢? これは夢なんじゃないかと思う。
「どうしてここまで?」
「僕を止められる者は限られているからね。城さえ出てしまえばこっちのものさ。僕が早駆けが得意なのはこの前、君も見ただろう?」
レイモンド殿下はわたしの袖から出ていた素肌を触ると、さぁ部屋に入ろう、と言った。
促されて部屋に戻ると、時間を計ったかのようにアンがお茶を持って現れた。後ろからリリーが大きくて重そうな花瓶に入った、たくさんの薔薇を持ってきて飾っていった。花瓶は花の重さに耐えきれず、落ちてしまいそうに見えた。
部屋の明かりは消えたまま、殿下はランプを一つ引き寄せ、火を灯した。そして「これでもお忍びなんでね」と笑った。
仄暗い中でも、わたしは殿下の笑顔がチャーミングなのを知っている。小さな炎を映す赤い眼の輝きも。
あの日から、世界が変わった。
それまでの、誰かに流されるように生きていく世界から、自分で扉を開けて歩いて行ける世界へ。
あの時のワインには魔法がかかってたみたい。
殿下は指先でわたしの巻き毛を弄んだ。
「女の子の髪の毛はどうしてみんな巻いてるんだろうね。マメのツルみたいだね」
くすくすと笑いがこぼれる。だってその喩えはちょっとおかしい。お相手によっては怒らせてしまうかもしれない。
「そうですね、スイートピーのツルの先によく似てます」
「だよね。ずっと不思議だったんだ。でも、こうして触ってみるとずっとやわらかくて、そして君の髪は絹糸のようにとても細い。僕の指が絡んだだけで切れてしまいそうだ」
想像の斜め上を行く変化球ばかりの、恐らくこれは口説き文句で、暗闇の中、頬が染まってしまったことに気づかれなければいいと思った。
思えば、最初からやさしくて――。わたしは殿下を疑うこともせず、あんなことになったわけだけど。
目がパチパチする。
これこそが、運命だとしたら?
「君はもう相手を決めてしまったのかい? どっちも手強い相手だな。片方は社交界の女性の憧れの的だし、片方は実に素晴らしい政治家だ。僕の入る余地はまだ残っているかい?」
「······お戯れを。世情に疎いわたしでも、公爵令嬢との話は耳に入っております」
ああ、と殿下は長椅子の背もたれに肘をかけ、頬杖をつくような姿勢でわたしを見た。
「アイリスは従姉妹だよ。婚約者のように言われてはいるけれど、僕の母は公爵家の出だからね。僕たちは本当に従姉妹かと思うくらい意見が真反対なんだ。アイリスだって僕なんか願い下げだろうよ、第一、彼女には求婚者が後を絶たないしね。僕が抜けたところで問題は無いさ」
そうなんだ、と思う気持ちと、騙されてはいけないという気持ちが存在する。綱引きのような気持ち······。それはもう既に殿下に心惹かれはじめているのかもしれない。
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