第12話 太陽のような
いつもとは違う廊下を延々歩く。
白い大理石は真っ白な砂浜を思い出させる。
コツコツと蹄の音がする。
ロシナンテはなにも喋らない。いつもとちょっと違う気がするのは、いつもと違うところを歩いてるせいかもしれない。
波音もまだ聞こえている。耳の底まで響いている。尽きることはない。
ロシナンテの持ったロウソクが弧を描いて彼は振り返る。なんだかいつもより遠く感じる。
「今日はとても楽しかったようですね」
「そうね、こんなに驚くことがいっぱいだったのは初めてかも! すぐ隣の国なのに、いろんなことが違うのね」
そうでございますね、と面白くなさそうにロシナンテは呟いた。どうして彼が今日は寡黙なのか、よくわからない。
「ロシナンテはどう? 楽しくない? 海には行ってみた?」
「私が浜辺に出たら、毛の間に砂が入って大変なことになりますよ」
ロシナンテは苦笑した。確かにそうかもしれない。でも、わたしの楽しんでいることを、できれば彼にも同じように享受してほしかった。
「⋯⋯ヒューズ様はいかがですか? 失礼しました、時期尚早でしたね」
「ヒューズ様? とっても楽しい方だわ。そして頭の良い方よね。親切でわたしなんかにも子供っぽい扱いをしないでやさしくしてくださって」
「そうでございますか。では私もヒューズ様に感謝しなければなりませんね。お嬢様がお世話になったわけですから」
「ふふ、そうね」
ロシナンテは元に戻るようにくるりと回り、また灯火で廊下を照らしながら歩き始めた。その後はなにもなかったかのように、また一言も喋らなかった。
◇
執務室に入ることを特別に許されて、鍵を渡される。今までなら『つまらない』の山だった書類の束も、今では黄金の山だ。
今日は急用が入ったというヒューズ様の代わりに、ランズという若者がいろいろ教えてくれることになった。
「お嬢様とお近づきになる機会をいただき光栄です。わからないことはなんでもお尋ねください」
「いえ、こちらこそご指南よろしくお願いします」
ランズはブラウンの髪に緑色の目をした感じの良い青年だった。朗らかで、わたしに堂々と接する度胸もあるらしい。ヒューズ様の人選もやはり素晴らしい。
「ではどの辺りの文書からご覧になりますか?」
「そうね。交易についてと雇用について、できたら学びたいのだけど」
「正直、お嬢様が政治を学ばれたいとお聞きした時、ほんの遊び程度でよろしいのかと思っておりましたが、とんでもない誤解でした。謝罪させてください」
「ランズ、なにも貴方は間違ってないのよ。わたし、つい最近まで領地経営なんて誰かがすればいいものだと思っていたんですもの」
「いえ、しかしお嬢様にはお兄様に当たる方がいらっしゃるじゃないですか」
「そうね。でも、お兄様を待っているだけじゃダメだってわかったの。それにもし嫁ぐことになったとしても、夫の留守の時にはわたしが領地を守れるようにならないと」
でないとお母様みたいに、なにも考えず浪費だけをすることになってしまう。わたしの知る伯爵夫人はそういう方だから。政治に口を出さず、城の中の楽しいことだけを考える。新しいイベント――新しい買い物をたくさんして、使用人を増やして、もっと、もっと贅沢に――。
そこにかかる費用は自分の領地の領民が払えばいい。だってわたしの領地に住んでるんですもの!
と、わたしもその考えの何割かを持って、嫁ぐところだった。良かった、新名がわたしの中に来てくれて。愚かしいだけの婦人にならないで済むもの。
ランズが書類を仕分けてくれる。
わたしは待っている間に窓の外の風景を見ている。知らない庭は面白い。特にここの庭園には海辺にしか咲かない花が多いと聞いた。それはどれかな、と下をのぞき込む⋯⋯。
ヒューズ様が庭園への小道に入る。海風におおよそそぐわないレースのついた日傘をさした、レモンイエローの健康的な色のドレスを着た女性と。二人は親しげに手を組んでいた。
「ああ、ルシアン様とご一緒ですね。大丈夫ですよ、ルシアン様はヒューズ様の従姉妹に当たる方で、子供の頃から兄妹のように育ったそうですから。縁談もなかったわけではないらしいのですが、『妹と結婚できないだろう? 馬鹿なことを言うな』とヒューズ様らしく笑われたらしいですよ。私も人伝てに聞いた話ですが」
「はぁ」
上からチラッと見ただけだったけど、赤みがかったブロンドの、背の高い、スラッとした女性だった。ライオネス家は背の高い人が多いのかもしれない。
そうか、そうなんだ。
「お二人でお茶をしたらこちらにいらっしゃるそうですよ。それまでに少しお勉強を進めましょう。でないとヒューズ様に叱られますよ」
「そうですわね」
貴婦人のことは忘れることにして、机に戻る。
ランズはとても丁寧に、交易をする時のルールと契約の仕方を教えてくれた。そもそも、今、わたしの領地とライオネスとの交易の責任者がランズだということだった。
「え? こんなにお若いのに? 歳上の方々がうるさく仰ったりしませんか? オースティンでは年齢での序列が厳しいですが」
「はは、確かにイヤミを言われたりはしょっちゅうですよ。でもね、ライオネスには海風のように自由の風が吹いているんです。私はその気流に運良く乗ることができた。この権利を失わないよう、ヒューズ様を失望させないよう、がんばろうと思っています」
ランズの目は希望に輝いていた。
それに比べるとオースティンの官僚たちはどうだろう? 誰が偉いのか、そればかりに夢中のように思えてきた。
誰かと誰かの権力が拮抗する時、急に贈り物が増えることがあった。要するに、わたしは利用される側だったんだ。わたしがいただいたものをお父様たちにお見せすると、くださった方のポイントになったんだ。
⋯⋯なにも知らずにただもらったものに喜んでいた。馬鹿なわたし。
「少しお疲れでは? お茶を淹れさせましょう」
ランズが部屋を出て、アンが笑顔で部屋に入ってきた。まさに満面の笑みだ。
「どう? ここは楽しい?」
「ええ、皆さんやさしくしてくださいますし。でもなにより、お嬢様にお会いできてうれしいです! 疲れておりませんか? 顔がいささかおやつれに⋯⋯」
「そんなことないわよ。楽しすぎて疲れてるかもしれないけど」
「ですわよね。ヒューズ様はとても素敵で気さくな方ですし、でもお嬢様の周りにいらっしゃらないタイプですから振り回されてしまいそうですもの」
「そんなことはないわ!」
わたしは顔の前でなんとかアンの考えを変えようと手を振った。
「ヒューズ様はご一緒して疲れるような方ではないわ。むしろ――」
「むしろ?」
声に驚くと、いつの間にか扉を開けたヒューズ様が立っていた。さっきまでの窓から見えた紳士的な服装から、もっとラフな服装に戻っていた。
「むしろ⋯⋯あの」
「無理に言わなくていい。俺にとっていいように解釈しておくよ」
アンがさっと下がって、新しいお茶を取りに行った。アンの代わりに、ロシナンテが入ってきて、わたしにお菓子を持ってきた。
「おう、余り物で悪いけどさっきのアフタヌーンティーのお菓子なんだ。頭を使って疲れた時は甘いものに限るよ」
「ヒューズ様は甘い物がおすきなんですか?」
「疲れてる時はな。普段から無意味に食い散らかしたりはしないぞ。それからその菓子のチョイスはロシナンテがしたんだ。気に食わなかったらコイツのせいだからな」
「お戯れを 」
ヒューズ様は長椅子の上に伸び伸びと座ると、大きな欠伸をした。そして、「悪い、少しだけ寝かせてくれ」と言って、返事をする間もなく眠ってしまわれた。
部屋の中にはわたしとロシナンテ、二人だけ、という形になってしまう。
「お気に召しませんでしたか?」
「お菓子のこと? すきなものばかりだわ! それにこのタルト、見たことがないわね。すっごく楽しみ。わたし、ロシナンテの見立てを信用してるわよ」
「それは光栄です」
ロシナンテはオースティンにいる時とあまり変わらないように見えた。知らないところに来て、昨日は彼も緊張していたのかもしれない。ロシナンテだって、人ですもの。
ロシナンテの持ってきたタルトは見たことのないフルーツが乗っていた。食べると、甘いけれどとても酸っぱかった。南国には酸味の高いフルーツが多いようですよ、とロシナンテは素知らぬ顔で言った。
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