第11話 砂浜②

 ヒューズ様は馬に跨ると、わたしの腕をぐっと引いて、気がつけばわたしは見晴らしのいい馬の上だった。


「いかがかな、乗り心地は」

「あの、そんなにギュッとなさらなくても、わたし自分でしっかりと······」

「しっかりと?」


 ヒューズ様が手綱を引くと、馬は前脚を上げて反り返りわたしはバランスを崩した。


「ほら、やっぱり俺が押さえていた方が都合がいい」

「ごめんなさい」


 赤くなって俯く。大人ぶったところで、大人になれるわけではない。わかりきったことなのに。


「まだかわいらしい歳頃じゃないか。それでいい。無理はする必要はない」


 馬は早足で走ったりしなかった。彼にしっかり手綱を握られて、わたしが驚かないスピードで歩いた。

 なんだかとても恥ずかしくなる。


「上手に乗れないくらいがかわいらしいですよ」


 わたしの気持ちを知ってか知らずか、頭上から背の高いヒューズ様の声が聞こえる。

 風の音にも負けない、しっかりした重みのある大人の男の人の声だった。


 風は嵐のように轟々と耳元で唸り、同時にザザーンという音の繰り返しが、そこに湖より大きななにかの存在を教える。


 はいやっ、とヒューズ様が馬を走らせる。その服にギュッと掴まる。

 まるでお話に出てくる『お姫様』みたいだ。っていうのは新名の感想、と言いたいところだけどわたしの胸も確かに高鳴った。


 馬が揺れる度、心臓も飛び跳ねる。こんなに刺激的な体験は子供時代にしかなかった。鳥籠のように家から自由に出ることのできない自分の身が滑稽だった。


 波音は次第に近づく。

 風はわたしが近づくのを嫌がるかのごとく抗う。それでもヒューズ様は馬を走らせる。

 松林を抜けて、風に砂が舞い上がる。目をとても開けたままではいられそうにない。固く目を閉じる。

 ヒューズ様はわたしを軽々と馬から下ろすと、わたしの二つの眼をこじあけた。「着いたよ」と囁いた。


 ◇


 それは――なんと表現したらいいのか。

 真っ白い砂が美しいのか、それともそこに繋がり空と交わる青い海が美しいのか、とても決めることはできそうになかった。


 声にならずただ立ったまま呆けるわたしにヒューズ様が声をかける。

「お気に召したかな」と。


「何度も物語を読んで想像したんです。でも、本物はわたしのちっぽけな想像の枠を軽々と飛び越えたものでした! こんな経験をさせてくださってありがとうございます。きっと、一生忘れないと思います」


 ヒューズ様は後ろ頭を掻くようなフリをしてすぐに返事をしなかった。海より、わたしを見ている。それはひしひしと伝わってきた。


「確かに嫁は若い方がいいのかもしれない。······ここが気に入ったのなら、ニィナ、君のものにしてもいいんだ。その時はこの国の全部をあげよう」


 そこまで言うとヒューズ様は靴を脱がずに砂浜にどんどん入ってしまう。わたしは迷った末、ローヒールの靴は片手に提げて、ヒューズ様を追いかけようとするけれど、なぜか足が進まない。砂に足を取られるというのはこういうことなんだ、と納得して一歩一歩、慎重に歩く。


 ――脳裏にさっきの言葉が浮かぶ。

 この海のすべて、と仰ったけどそれは不可能だ。海は大きすぎてきっと手に余るもの。


 ◇


「ほう、領地の財政を立て直したいと」

「はい。わたしなんかに務まりますか?」

「ニィナ、そのための勉強はしたのか?」

「⋯⋯少し」


 ふぅん、とヒューズ様は感心したのか、それとも興味がないのかわからない声で答えた。

 わたしは項垂れた。こんな大それたこと、口にしなければよかった。


「帳簿に全部、記載されてるんじゃないのか? それを見て計算すればいい。誤魔化した数字を見つけるんだよ」


 わたしは先日見つけた不正のある請求書の件を話した。


「なるほどな。支払う時点で間違ってるんじゃ、一枚ずつ見ていくしかないな。ところで数字が得意なのか?」

「⋯⋯少し」


 嘘ばかり。数字が得意なのわたしじゃなくて新名だ。それを鼻にかけてはいけない。


「じゃあちょっと、ここにいる間、勉強するか。俺としては面白くないけど、まぁ、お嬢様の頼みだ。女の頼み事ひとつ聞けないようじゃ男の名折れってやつだ」


 ◇


 とりあえず別邸の、仮の執務室を見せてもらう。ライオネスは国をいくつかの地域に分けて統治をしていて、国の中央で最終決裁をするらしい。

 そんな内情をほいほいわたしなんかに教えて問題がないのかな、と心配になる。ロシナンテは付き添いだけで、壁際に立ってなにも言わない。ここに来てからほとんど話してない。


 ヒューズ様はお話上手だったし、わたしは知りたいことがたくさんあった。


「ニィナが言ってた服の仕立ての請求書、うちのだとこれだな」


 ピラッと渡されたものをよく見させてもらう。両手でしっかり持って、上から下まで丹念に読む。

 ⋯⋯違う。誤魔化しようのない文書だ。数枚、めくってみると、すべて形式が一致していた。コピー機もないのに、だ。


「これを店舗ごとに渡している。書式が合っているかどうかは提出された時点で書記官が検分する。間違えてたり誤魔化しはアウト、つまり再提出だ。

 ――例えば出張費なんかの雑費は、一番下の雑費欄に細かく書かせている。そうだな、さっきの話なら王都からオースティン領までの往復、とかな。もちろん店の所在地も記入させているから、領地内の店から出張費をぼったくられることはないな」


 ははは、と大きな口を開けてヒューズ様は笑った。どこか得意げな笑いが子供っぽくて憎めない。


「あのー、どうして同じ書類ができるんですか?」

「ああ、形式は同じならなんでもいいんだけど、控えを取ることはあるな。他国から魔法使いを雇って増やしてもらうこともなくはないんだが、一枚をもう一枚に増やすのは誰でもできるよ」

「どうやって?」


 ふふん、と彼は薄い紙を取り出した。その薄紙自体が高級なんじゃないかと思ったけれど。


「この紙の裏を炭で塗り潰すんだ。それで上からなぞると、ほら、写すことができた」

「⋯⋯ほんとだ。すごいです! こんなに簡単に複写できるなんて」


 感動した。カーボン紙だ。

 こんな文明の低い世界でできることは限られてるに違いないと思ってたけど、技術力の進歩は、統治者がしっかりしていれば大きく前進するのかもしれない。


 そういう有用な技術の開発をしようとしてる人を支援してあげればいいのでは⋯⋯? 新名が心の中でウインクした。そうか、そうなんだ。

 わたしはやっぱり、物を知らなすぎる⋯⋯。


「どうした? 面白くなかったか?」

「違うんです。わたしって、ほんとにただのお嬢様育ちで、わたしなんか」


 ここまで言ってヒューズ様はわたしの唇に指を当てた。わたしの言葉は途切れた。


「ニィナはまだ十六だろう? これからだ。まだまだ発展途上、成長中。まぁ、俺を追い越すのはなかなか大変だと思うけどな」


 頭の上に暖かい手のひらが乗る。ヒューズ様の目を見る。やさしい視線を感じる。今まで誰がこんな目でわたしを⋯⋯。


「ヒューズ様、申し訳ありません。お嬢様はそろそろお休みの準備がありますので」

「ああ、悪かった。つい面白くてな。自分の成果を人に自慢できる機会ってなかなかないだろう?」


 ロシナンテがなぜか、顔をしかめているように感じた。人の好き嫌いを顔に出すなんて。いいえ、それ以前にわたしの目で見て感情がわかるくらいわかりやすい顔をしていることが珍しいのだけど。

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