第10話 砂浜の感触
ノックの音がして、ロシナンテがそっと部屋に入ってきた。どうぞ、とわたしはそばに寄るように促した。彼は相変わらず表情が読めなかった。昨日の一件を叱りに来たのかしら?
「お加減はいかがですか?」
「大丈夫よ、少し休めば良くなるわ。なんだか疲れたみたいで」
ロシナンテはアンに目配せをして、人払いをした。本来は殿方と部屋着のまま二人きりになるなんて許されないことだけど、彼は特別だ。お父様にも認められている。
「昨晩のことを覚えておいででしょうか?」
「ええ、思い出したわ。夢かと思ったけど」
「ですよね、私もお嬢様があんなことをなさるとはまったく思っておりませんでした」
あんなことか。今まで政治になんて、ほんの少しの興味も持たずにいたんだもの、そう思われても仕方ないわね。
本来なら、家を空けることの多い主人に代わって、女主人も領地経営ができるように勉強しなければいけないところですもの。わたしはそれが嫌で、ずっと先延ばしにしてきた。このままでは危うくお父様やお母様と同じく、領地に責任の持てない人間になるところだったわ。
新名――不思議な人。でも彼女がいてくれると、わたしにはできないこともできるような気がしてくる。知らなかった知識もなぜか身について、難しい書類も難なく読めるようになった。
彼女に会えて良かった。
「わかっております。望まぬ結婚は嫌ですよね? しかしそれを問うのはタブーですから、今まで口にせずにおりました。
本来なら伯爵令嬢という位を考えますと、若くて美しい姫君にデビュタント後は多くの求婚者が集まることでしょう。なにも、二択でなくてもよろしいはずです。それなのに。
私はお嬢様の望む方に嫁いでいただきたい。それだけです」
ロシナンテは手近な椅子に腰を下ろすと、両膝の上で手をギュッと握りしめた。······なんとなく、彼の気持ちが今なら伝わってくる気がする。
「そんなに思いつめないで。お嫁に行くなんて誰でもしていることよ。ずっと歳の離れた老人の側室になったりするよりはずっとマシだわ」
「悲しいことを仰らないでください」
「じゃあ、約束して。わたしが金の鉱脈を探し出せるよう、協力するって」
「しかし失礼ながらお嬢様には」
しっ、と唇に指を当て、黙るよう促した。ロシナンテは座り直し、背を正した。
「考えがあるの。それから、領地経営に興味があるの。この土地について詳しい者を探して。きっと、わたし、皆に悪いようにはしないから」
どう見てもロシナンテがわたしの言うことを信じているようには見えなかった。それはわたしにだってわかるくらいだった。
ヒューズ様から海を見にこないかと誘われて、用意された馬車でライオネス家の別邸へ向かう。
わたしは海を見たことがない。
ライオネス領は我が領地の南にあり、ガーラント様のウェーザー侯爵家の領地の南端、我が領地の東側にある先日の公爵夫人の、正確にはホーネット公爵家の領地の南部にまで横に長く広がっていた。
戦争が起きた時には守りの弱い土地ではあるけれど、港湾貿易と観光産業で大変賑わっていると聞いている。侍女たちからのお土産のリクエストをつい聞いてしまったら、すごく長いリストができた。アンは「適当にあしらっていいんですよ」と言った。
ライオネス領が我が領地に沿って細長いこともあり、思っていたよりもスムーズにライオネス家別邸に着くことができた。ここはもう海の近くらしい。耳を澄ませると、風とも川のせせらぎとも違う不思議な音が耳を震わせた。
「おう、ロシナンテ、元気だったか?」
「ヒューズ様。こちらから挨拶するのが礼儀ですのに、失礼いたしました」
「俺は堅苦しいのはすきじゃないんだよ。お前もここにいる間はもっとフランクに行こうぜ。なんでだかわからんのだが、お前が気に入ってな。姫君がここに来ることが決まった時にはお前も一緒に来いよ」
「なにを仰るかと思えば。私はただのロバにございます。そして、主はオースティン伯爵です。伯爵の許しなくして城を出ることは叶いません」
ふぅん、とつまらなさそうにヒューズ様はロシナンテを見た! この世にそんな風にロシナンテを思ってくれる人がいたことに驚くと共に喜びさえ感じた。不思議。わたしのことではないのに。
「順番が逆になり失礼いたしました。海をご覧になったことがないと仰っていらっしゃったので、突然お招きしてしまった無礼をお許しください」
思わずくすくすと笑いがこぼれる。さっきまでの人とはまるで別人。
「お招きいただきありがとうございます。ヒューズ様、先程、ロシナンテに『フランクに』と仰ってたでしょう? どうぞわたしにもフランクにお願いします」
「じゃあ、ニィナ様もお気軽に。あまり貴族言葉を使うと舌を噛みますよ」
豪快に笑うと、壊れ物を扱うようにそっと馬車から下ろしてくれて、館までエスコートしてくださった。
「ご存知の通り、国が長いでしょう? 行き来が大変なので、このような別邸を等間隔でいくつか持ってるんですよ。
ここは中でも館は新しい方で、その上、海辺がずっと白い砂浜になっていて実に綺麗なところでね。
ニィナ様はきっと帰りたくなくなると思いますよ。これは本当に」
少し休んだら散歩に行きましょうか、と誘われて、思わず元気に返事をしてしまった。
砂浜を歩く時にあまり長いスカートを履いてはいけないと言われ、ではブーツが必要かしらと考える。
ライオネス家の侍女たちが明るく笑って、こう言った。
「お嬢様、砂浜は素足で歩くのが一番なのです。下手な靴では砂が入ってしまうし、皮のブーツでは傷がついてしまいますわ。砂浜まではすぐ脱げる踵の低い靴でいらしてはいかがでしょうか?」
「じゃあ、靴下は?」
「そうですね、履かずに行かれるとよろしいかと。旦那様は多分、お嬢様に砂浜の感触を感じていただきたいんだと思いますわ」
そうして彼女たちはまた楽しそうにくすくすと笑った。
砂浜って、そんなに特別なところなのかしら?
「ヒューズ様、ニィナ様の準備が調いました」
「おう」
玄関ホールに立っていたヒューズ様はわたしを振り返るとなぜか顔を赤くして、また扉の方を向いてしまった。
「ニィナ様に帽子を。風に飛ばされないものをな」
「畏まりました」
侍女たちはお辞儀をするとパタパタと消えていった。やはり彼は少しせっかちなのかもしれない。
「ヒューズ様、やはりわたしの格好、おかしくないでしょうか? 侍女たちの言う通りにしてみたんですけど」
「そうですね、今度は砂浜にもっと相応しい服をこちらで用意させましょう」
「『フランクに』ですよ」
彼はまたこっちを向くと、二歩三歩とわたしに近づいた。
「確かに長いスカートは波に濡れると思うが、こんなに白い足が見えてしまうのも問題だな」
「着替えましょうか?」
「いや、せっかくの初体験だ。思う存分楽しんでほしい。······スカートが風にはためいて翻るのだけは勘弁してほしいところだな」
そう言って苦笑すると、彼は本当にフランクに、わたしの頭にポンと軽く手を置いた。
帽子を被るはずの髪に装飾はなく、ただ、ヒューズ様の手の重みだけがそこに残った。
不思議な感触だった。
わたしの兄はわたしにそんなことは決してしなかった。いてもいなくても同じだと言わんばかりで。確かにわたしは嫁げば城を出るわけだから、お兄様の考えに誤りはないと考えていた。
······でも今、年上の男性とはどういうものなのか、初めて本当の意味で意識した。
「参りましょう」
帽子を被ったわたしは置いていかれないようにヒューズ様を追いかける。途中でヒューズ様が立ち止まり笑った。
「そんなリスのような走り方じゃいつまで経っても着きませんよ。だからと言って、まだ抱き上げて連れていくという訳にはいきますまい。馬に乗った経験は?」
「乗せてもらったことなら」
「じゃあ俺と乗りますか」
従者たちはキビキビと働いて、やがて一頭の立派な黒毛の馬を連れてきた。手入れの良くされた、そしてヒューズ様に忠実そうな上手だった。
どう、とヒューズ様は馬の腹を軽く叩き、「では行きましょう」と言った。
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