第9話 夢遊病だそうで

「どうしてこんなところに! って、言いたいわよね?」


 作り笑いが長年共にいるロシナンテに通用するかわからない。それでもほかに策が思いつかない。

 しらばっくれるのは無駄そうだし、だからと言って······。


「そこは財務長官の机です」


 頭痛が止まらない、というように額を押さえてロシナンテは教えてくれる。あ、そうなんだ。ここが財務長官の。あの子、ナンシーって言ったかしら? ちょっと言葉のキツい、おっとりしたお姫様のニィナにも上から目線の子、あの子が財務長官の娘のはず。

 なるほど、権力で幅を利かせているわけだ。


「そこになにか見つけましたか?」


 ロシナンテの顔はあきらめていた。今日に限って彼の表情がいつもより読みやすいのはなぜなのかしら、と不思議に思いつつ、手に持った書類をどうするか考える。

 ――相手はロシナンテだし。賭けに出てみよう。


「ちょっとこっちに来て」


 怪訝な顔をした彼は真っ赤な毛足の長い絨毯の上を蹄で歩いてきた。そして、わたしが差し出した書類に目をやった。


「これはこの間のパーティーのお母様のドレスの請求書なんだけど、ここ見て。マダム・マリアンヌはこの城下に店を構えているのに王都からの出張費をドレス一着ごとに取っているのよ。おかしくないかしら?」


 ロシナンテは書類を手に取った。彼の瞳の中にはロウソクの灯火が見える。口元が厳しい。


「どうしてこれを?」

「どうしてって······。それは、その、わたし、お嫁に行かないといけないじゃない? それを急いでるのは、財政が傾いてるからなんでしょう? だから、わたし、この領地の財政を見直したらどうかしらって考えたの。大体、お父様もお母様もお金には無頓着だし······」


「お嬢様、仰りたいことは重々承知ですが、そこは姫君が顔を出して良いところではありません。何事にも線引きというものがあります。こういうものは任命された者たちの仕事です。例え私がこの部屋でご忠告差し上げても、なにも変わることはないでしょう」


「そんな!? じゃあ黙って借金がどんどん膨らむのを見てろって言うの? 城が傾くだけならいいわ。でも城が傾くと、領民たちが苦しむことになるのよ。税を多く搾取することになってしまうじゃない!」


 今度は彼の目がさまよった。窓ガラスに映るわたしたちを見て、彼はこう言った。


「そうかもしれません。ですから――」

「わたしを結婚させることで領地の財政を安定させるのよね」

「······一家臣の私には答えることのできない問題です」


 書類を元に戻すと、ロシナンテはわたしに着いてくるように促した。政務室の扉はまた重い音を立てて、しっかりと閉まる。

 なにも言わずに歩いていると守護騎士のひとりに声をかけられる。それはそうだ。真夜中にロシナンテとわたしが二人きりで歩いているなんて怪しすぎる。


「······ここだけの話にしてほしいんだが」

「はい」

「実は、お嬢様は婚約の話が出てから夢遊病になってしまわれて、こうして幾度か真夜中に部屋を出てしまうことがあるんだ」


 騎士は口を閉じて、次の言葉を探しているようだった。わたしはバツが悪くて目を逸らしていた。


「お嬢様、まだ十六にもなっていらっしゃらないのに、大変な重責を背負われて。皆、大変お労しいと思っております。どうぞ夜くらいは悪いことはお忘れになって静かな眠りに包まれていただきたい。きっと風はいい方向に吹きますとも。お嬢様を神が見捨てることはありません」


 ますます顔を上げることができなくなる。恥ずかしさで爆発しそうだ。城内の者たちにそんなに心配をさせていたなんて。

 これにはニィナも同感だろう。


「さぁ、お嬢様、参りましょう。陽気の良い季節とはいえ、夜は冷えます」

「ロシナンテ様、お疲れ様です」


 ロシナンテに肩を軽く押されて歩き始める。

 ごめんね、きっとあの人も薄給に違いないわ。でも、城内に比べる人がいないから、知らないのよね、自分の本当の価値を。


 それを考えると怒りが、不思議なことにあの幼いニィナの心に宿った。ニィナが財政のことを教えてほしいと思っている。


「ロシナンテ、わたしはただのちっぽけな姫でしかないかもしれない。でも、知ってることを知らないままにしておくのは違うと思うの。見逃して」

「しかし」

「こんなことをしても最後の悪足掻きにしかならなくて、わたしはやはりどちらかの方に嫁ぐのかもしれない。でも、そんなことより城内の、それから領地の皆にいい暮らしをしてほしいのよ」


「本気ですか?」

「ええ、もちろん。策はできたわ。ロシナンテには迷惑がかからないようにやるから。だからロシナンテはいつも通りでいてね。わたしはいつだってあなたの味方よ」

「お嬢様、それは反対です。私こそが、お嬢様の味方なのです。喜んでなにかの折には盾となりましょう」


 なんか、ちょっといいシーンだった。

 シェイクスピアの戯曲の台詞のように、心のど真ん中にじーんと来た。

 ああ、ロシナンテはニィナのことをいつも想っているんだな、という気持ちがダイレクトに伝わって――え?


 気がつくと見つめ合う姿勢になっていた。ロシナンテの背丈はそれほど高くはない。彼の目が見える。彼もわたしを見ている――ええっ?

 ちょ、ちょっと待て。そういう展開なの? 許されぬなんたらってやつ? それで二人は気持ちが繋がったまま離されてしまうの? 永遠に?

 ······永遠に。


 ◇


 朝がやってきた。

 いつものように小鳥たちが歌をうたう。その美声のお礼にパン屑をいつもはあげるんだけど、今日はなんだか身体が重い。思うように、動かない。


 なにがあったのかしら?

 昨日はあんなに元気だったのに。

 そうだ、夜風に当たったかもしれない。よく思い出せないけど、暗い中、ロウソクを······。ロシナンテに会ったような······。


「お嬢様、お顔の色が優れませんが、ご朝食はいかがなさいますか? お部屋に運ばせましょうか?」

「そうね、そうしていただこうかしら······」


 アンはこっそり小さな声で耳打ちをした。


「今朝、夜勤明けの騎士がやって来て教えてくださいましたの。わたし、気が利きませんでした。お嬢様がそんなに悩んでいらっしゃるなんて。わたし、お嬢様を絶対にお守りしますから、どうぞ安心してお過ごしください。夜中でも構わずに呼んでくださいね」


 わたしはアンの顔を見上げた。いつものそばかす顔が涙を浮かべている。······どうして?

 ん?

 ああ······。

 アイツ、喋ったな。でも仕方ないか。心配させてるもの、皆に。


 わたしの些細な悩み事のせいで皆を悩ませてるなんて、どうかしてる。なんとか解決しなくちゃならない。


 これはもう、ガーラント様がどうだとか、ヒューズ様がこうだとか、そういう簡単な問題じゃない。

 お嫁入りがなくなるかもしれいなんて甘い考えはよそう。ここを出る前に、皆に感謝の気持ちを伝えられるよう、できる限りのことをがんばろう。······そうよね、新名?


 心の中で新名がニヤッと笑うのが見えた。いつから彼女がわたしの心に住んでいるのかはわからない。でも、今いるのは確か。そして、わたしを助けようとしてくれてるのも確か。


 これは神様からの祝福かもしれない。


 この機会を逃さないよう、穏便かつ着実に事を進めなくちゃ。大切なことはみんな、新名が知ってる。わたしはせいぜい物を知らない無知な令嬢ぶりを発揮しよう。


 確かにガーラント様の仰った通り、勉強はつまらなく思えても大切なのかもしれない。新名が子供の頃からがんばってきた記憶がわたしの中に浸透する。あの部屋に入る理由はちゃんとある。大丈夫、がんばりましょう。


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