第8話 政務室
部屋の扉を中から閉めて、背中で寄りかかる。
ロシナンテの言うことはいちいち正しくて、反論の余地もなかった。
どうしたって彼は半獣で、わたしがどんなに親しみを感じていても、ほかの人から見たら彼がわたしの隣に立つことに違和感を抱くだろう。
現にガーラント様はロシナンテをあまりよく思っていないようだった。それ以前にわたしをほかの男性のそばに置きたくないようであったけれど、⋯⋯ロシナンテならいいじゃない。人間の男性ではないわけだし、心配無用だわ。
そこまで考えて、ロシナンテの丸い瞳を思う。
なにを考えているのか、いつだって教えてくれない。わたしの考えなんて全部お見通しだろうに。
⋯⋯長いつき合いなんだから。
ではヒューズ様はいかがかしら? ヒューズ様は新しいことがお好きなようだったし、自由を大切にしているように見えた。
あの、太陽のようなおおらかさで「構わない」と仰るかもしれない。⋯⋯かもしれない。
人生を当たり前のようにずっと共にいてくれると思っていた人が、残りの人生で会える機会が数回になってしまうなんて、そんなこと考えたこともなかった。
寝巻きにも着替えず、ベッドに突っ伏した。アンが着替えを手伝ってくれると言ったけど丁重にお断りした。「ひとりになりたいの」と。
ベッドサイドにホットミルクを置いて、アンは部屋を出た。
そもそも。
わかってる。姫として生まれた以上、政略結婚が当たり前だということ。わたしにはほぼ選択権はないこと。それでも選択肢が二つあるだけで恵まれていること。
お兄様は貴族の学校を出た後、そのまま宮中に入ってしまって滅多に帰ってこない。この領地を継ぐのはお兄様だけれど、我が領地の内政に興味関心がない。
お兄様に興味があるのは中央だけだ。なんとかして、中央に滑りこもうとそれだけを考えていらっしゃる。うちの財政なんて知ったことじゃない。
そしてそれはどうやら父親譲りらしい。お父様は温厚で物わかりも良く、良き父であり良き夫だ。けれども領地に、政治に関心がない。
別にほかの領地に攻め入れと言ってるわけじゃない。うちの財政難をなんとかしてほしいだけなんだけど。多分、帳簿さえきちんと目を通してないに違いない⋯⋯?
帳簿⋯⋯。
聞き覚えのある馴染み深い単語に、頭を揺さぶられる。
頭痛がする。ズキズキ痛むかと思うと、今度はひどい目眩が、横になっているのにわたしを襲う。
アンをあの鈴で呼ぼうかと思う。
気持ちが悪い。吐きそう。こんなことここに来てから初めて――。
ここに来てから?
とても大切なことをすっかり忘れて色恋話に夢中になっていたわたしを呪った。
できる。わたしなら、この城の財政状況がどうなっているのか分析できる。上手く行けば改善策も出せるかもしれない。
伊達に会社でExcel弄り倒してお金に変えてきた訳じゃない。奨学金を借りて経済を学べる学校に進んだのだって、経済関係の資格を取って、経済学を身に付けるためだ。
本当は片親だったわたしは、高卒で働くべきじゃないかと何度も迷った。でもその分、進学を勧めてくれた母に報いるためがむしゃらに学んだ。
そうして大手商社で経理を任せられるようになったんだもの、パソコンはこの時代にないけど、帳簿の見方、付け方は応用できるはず。
黙って運命に流されていくだけなら誰にでもできる。でもわたしは、できる限り運命に抗いたい。
⋯⋯例え、それが誰の目から見ても馬鹿げているとしても。
お母さん、わたし、間違ってる?
綺麗なドレスも豪華な晩餐会もいらない。質素でも自分の中身を磨く人間になりたいの。――こちらのお母様には申し訳ないのだけれど。
よし、そうと決まれば!
ニィナは子供だからかやっぱりまだ意思が弱いところがある。わたしの意識が強いうちに少しのぞかせてもらおう。
ロウソクの灯りを持って、そっと部屋を出る。
守護騎士たちは我が家では暢気なものなので、ちょっと忘れ物を、なんて言えばすぐに通してくれる。セキュリティシステムとしては問題ありだと思うけど、今はそれが有難い。
向かうのは政務室。『ニィナ様』にはほとんど無いのと同様の場所だ。
キィッと重い扉が音を立てて開く。細心の注意を払ったのに。さすがに場内でも重要な場所は扉も頑丈ってわけだ。隠し事にも向いてそう。
しかし、天井まである本棚に、見上げるほど積み上げられた書類。どこになにがあるのか、まったくわからない。
ロウソクをあまり近づけると火が燃え移るかもしれない。慎重に見て歩く。わたしがここを継ぐようなことがあったら、まずはすべてわかりやすいように分類して整理しよう。
よしよし、文字は読めるみたい。よくある異世界転生ものでもそうだから、大丈夫だと思ってはいたんだけど。
このお父様のものらしい机の上かしら······? いや、ここは決済待ちの書類の山だわ。
じゃあこっちの大きな机。やけに頑丈なやつ。ガサガサやっていると、鉱石や年貢の取り立てなど、経済に関係する書類がいくつか見られる。うーん、でもこれも決済待ちかもしれない。
お父様は経済が苦手なのかもしれない。かと言って、戦争が得意そうにも見えないけれど。北方の民族たちが一丸となって攻め込んできたら、なんて夢にも思っていないんだろう。彼らはいつでも友好的で、こちらの言い値で鉱石などを売っていると信じているんだろう。
それでもいいんだけど。
問題はお母様の散財で······あ!
この間の公爵夫人のパーティーの時のドレス代の請求書! ちょい待って。······あ、電卓がない。こんな時、算盤やっててよかったなぁと思う。周りの子には地味な習い事だって笑いものにされたけど。
とりあえず、これから見てみよう。
よく見ると、請求書は何枚にも渡っている。お母様、一体ドレスを何着買われたのかしら?
お兄様が王宮好きなのも、多分、社交界好きなお母様からの遺伝ね。
手近な椅子に腰掛ける。手元の書類をめくる。······なるほど、ニィナはドレスの代金なんて考えたこともなかったからわたしも知らなかったわけだけど、ドレス一着とは言え、材質、装飾、それからデザイン料まで取られてる。確かマダムは王都でも引っ張りだこらしいから、デザイン料も相当······出張費!? ちょっと待て。王都で活躍してても、わたしの知る限り、我が領地に本店も住まいもあるはず。
うわー、ぼったくりだ。
すごい、五枚のドレスそれぞれに出張費が取られてる。その金額だけで普通のドレスが買えるんじゃないかしら。貴族社会、怖い。なんでも丼勘定なのかな?
これは······今度は庭園の管理費。えっ、あんなにみんなよく働いてくれてるのにこれだけしか与えてないの? これじゃ、······ニィナの経済感覚だけど、一日にケーキ一つ買えるかどうか。ケーキじゃ家族は養えない。「旦那様のお陰でお城で働かせてもらってますから」ってこの間、うれしそうにジャックは笑っていたけれど、笑い事ではないわ。
変なところで高額のぼったくりがあって、働き手にそれに見合う給金を与えずにいるなんて、あってはいけないことだとニィナも心の内でうなずいている。真っ黒に日焼けしたジャックの笑顔が浮かぶ。
ちょっと見ただけでこれなんですもの、もっと無駄がたくさんあるはず······。
と、重い扉がバンと開いた。
「何奴? ······ニィナ様?」
「あ、ちょっとわたし宛の手紙が舞い込んでないかしらって······」
苦しい。
あまりにも苦しい言い訳に酸欠になりそう。
ぼんやり見えるロシナンテの顔も、さすがに今だけは怪しいと思ってることがわかる。そんなことより知りたい表情がたくさんあるのに。馬鹿だなぁ。
「こちらにお嬢様宛の手紙が舞い込むことはございませんよ。城に届いた手紙はすべて、執事が受け取り、ここに運ぶより先にお嬢様宛のものは私が預かっておりますから、安心なさってください」
はぁっ、と明らかなため息をつかれて、それは当然だよな、と思う。夢遊病と言ったって通じないだろう。······どうしよう?
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