第6話 散歩道
わたしは裾を踏む必要のない軽い翡翠色のスカートを履いていた。歩く度に、重みのない生地が揺れる。暑くもなく寒くもない日の散歩がわたしはすきだった。
「モッコウバラのアーチが美しいですね」
「はい、庭師の腕がいいんです。わたしのすきな植物を丹念に手入れしてくれて。お陰でいつもすきな花を眺められるんです。とてもしあわせですわ」
ガーラント様はなぜか苦笑した。目を細めて背の低いわたしを見る。その目は少し寂しげだった。
「では赤い薔薇がおすきだと聞いたのはなにかの間違いだったのでしょう。実は私もあのパーティーには出席していたのですが、知人に囲まれて貴女のところまで挨拶にうかがえず」
「いえ、いいんです。そんなことをお気になさらないで。取るに足りないことですわ」
「けれどもし、あの場で貴女を目にしていたら、貴女が赤い薔薇をおすきだとは思わなかったでしょう」
わたしはなにも言えなかった。
なぜならあれは酔った勢いの口から出まかせであったし、あの、赤い眼の紳士に良くしてもらいすっかり気分が盛り上がってしまったからだ。
そんな状態で言ったとはいえ、自分の言葉には責任が伴う。
「あの、すみません、あれは酔った時の勢いで。公爵夫人の庭園の赤い薔薇が素晴らしかったもので······」
「酔った勢い?」
「はい。わたしは父と母に連れられてあの場に行ったのですが、やはりデビュタント前ですので皆様の輪に入ることもできず、その······踊れないので食べていたのです······」
ふっと、その時初めてガーラント様の表情が崩れた。美しい眉も切れ長の目も下がり、おかしくてたまらないと顔が語っていた。
「それでですね! その······ひとりで黙々と食べていたところに親切な若い紳士が声をかけてくださって、ワインを勧められたのです······。あ、でも飲みすぎたらいけないってきちんと忠告はされたのですよ」
「若い紳士?」
「ええ、親切な方でしたわ。その方がそれから少し経った頃、またこちらにいらして、それで酔い醒ましにとバルコニーに······」
「その男とバルコニーにいらしたのですか?」
「ええ······」
なにか悪いことでも言ったかしら、と不安になる。顔を見なくても不機嫌だとわかる。ロシナンテは顔に出さなくても、不機嫌な時にはこういう話し方をするから。
少し、怖くなる。
「それで、その、すっかり気分が良かったものですからバルコニーで足元も気にせず、要するに転んだんです。滑稽でしょう?」
わたしはおどおどしながら彼の目を見た。ヒヤッとした冷たい空気が彼の方から漂ってる気がしたから。
でも、そんなことは杞憂だった。
「お酒はほどほどになさいませ。それからニィナ様、男がバルコニーに女性を誘うのは、つまり下心があるということです。それについて行ってはいけませんよ。合意の上だと言われてしまいます」
ガーラント様の言葉に、顔にボッと火がついた! まさか、いくら男女のことに疎いからとはいえ、そういう意味があったなんて、その······。
思ってみれば侍女たちが貸してくれる恋愛小説ではそういうシーンが······。バルコニーはものすごくロマンティックなシーンが多かったような。
ハッとする。
「でも、でもあの方にそういう気持ちはなかったと思いますわ。まったくの善意だったと思いますの。悪かったのは自分を律することのできなかったわたしの方で」
今度は彼は大きなため息をついて、そして弱々しく笑った。もう、相好を崩すこともなかった。元の、繊細な表情に戻っていた。
「あの日のことは私にも些か責任がありますから。候補とはいえ、婚約者をひとりにしておいたのです。責任の一端は私にもあります。······しかし、その紳士とは一体どなたなんだろう? あの日の話は、飲み過ぎた令嬢がバルコニーで転倒したとしか伝わってきませんでした」
彼は遠くを見るような目で、考え事をしていた。
わたしたちは丁度、わたしのすきな柳を川辺に植えたアーチ橋に差し掛かったところだった。道沿いにはかわいらしい真っ白なマーガレットが微笑むように咲き、ピンク色のデイジーがそれを彩っていた。
「どちらにしても、もうやたらに見知らぬ男にお近づきになりませんよう。私もパーティーなどの時は貴女のことをお守りしましょう。不貞な輩もおります。何事も知らない令嬢になにかあっては取り返しがつきません」
「はぁ」
力強い言葉はわたしを全力で守ろうとする意思が感じられたのに、なぜかわたしはちっともうれしくなかった。
小説ならここで手でも握って「うれしいですわ!」と心が通じる大切なシーンになるはずなのに、いまいち実感が湧かないというか······心配されていることをうれしく思えない。
それよりも叱られた子供のような気持ちになった。
それに、あの晩、この人は多分、この美貌でたくさんの方に囲まれていたに違いない。もしかしたら楽器の演奏だって披露したかもしれない。
なんだか、思っていたより交友関係の広い方のような気がしてきた。
あの日、わたしが来ているのを知って、挨拶にも来てくださらなかったなんて······思ってもみなかった。『興醒め』という言葉が頭を掠める。
「そろそろ戻りましょうか」
「確かに結構歩きましたね。話しながらだったので気にしていませんでしたが」
「いえ、ガーラント様とこんなに長くお話できて良い機会だったと思いますわ」
大いに落胆していた。
わたしの庭に、初めて他所の紳士を私的に招いたというのに······話したいことはほかにあったはずのような気がした。
「お嬢様」
聞き慣れた声にハッと俯いていた顔を上げると、見慣れたロシナンテがそこまで来ていた。なにかあったのかしら、と思うとロシナンテはガーラント様に軽く挨拶をし、礼儀を示した。
「ガーラント様、今宵の晩餐はご一緒されますか? シェフが腕を奮いますが」
ガーラント様はすぐには答えなかった。また口を真一文字にして考え事をしていた。
その時間は長くはなかったけれど、短くもなかった。そうして彼はやっと口を開いた。
「いや、申し訳ないが今夜は控えさせていただきたい。伯爵と夫人にはお詫びの言葉を伝えてくれないか?」
「そうでございますか。わかりました。この後、まだ時間がおありのようなら応接室でお茶などいかがでしょう。北方から入った、香りの良いお茶がございます」
「申し訳ない。今日のところは帰らせてもらうよ。令嬢とよく話もできたし、僕は普段、あまり活発ではないので散歩をして疲れてしまったようだ」
「左様でございますか。ではそのように伝えてまいります」
マナー通りの正しい挨拶をして、くるりと背中を向けてロシナンテは歩いて行った。わたし以外にはわからないかもしれない。ロシナンテの尻尾はまるで小さくリズムを取るように揺れていた。なにが彼の機嫌を良くしたのか、それはまぁ、そういうことなのかなぁ?
ガーラント様はロシナンテのお眼鏡に適わないのかしら?
わたしの知らないなにかを、ロシナンテは知っているのかしら?
わかったのは、殿方の気持ちは一朝一夕ではわからないということだ。物語のように、出会いました、とんとんとんと、二人はロマンティックな出来事を重ねて、終わりには幸せな未来が待ってます、というパターンはそうそうないんだろう。
つまんないなぁと、小石を爪先で蹴飛ばす。
あ、隣にはまだガーラント様がいるのをすっかり忘れていた!
「申し訳ありません、小石に躓くところでした。わたしも少し疲れたのかもしれません」
急遽、笑顔を作って彼を見る。銀髪に赤いリボン。薔薇の色に合わせたのかもしれない。なんだかそれまでが悲しく見えた。
できることなら、今日という日を消しゴムで消してしまいたい······。ロマンティックな時間は、一体どこに落ちてるんだろう······?
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