第5話 為人(ひととなり)
菫の花束はみるみるうちにしおれていった。かわいそうに、花びらの輪郭が乾いてしわしわになっている。わたしはそれをベッドサイドでじっと見ていた。
「その花束、どなたにいただいたんですか? 庭師のジャックかしら? お嬢様の庭園のものですよね? お嬢様が特に菫がお好きだと知ってる者からかしら? それとも偶然でしょうか?」
「わかんないの。どうしてかなぁ?」
わざわざ菫を選んでくれたのか⋯⋯それを摘みに庭園に行くロシナンテの後ろ姿を思う。
「お嬢様の瞳の色とそっくりです。菫の色には濃淡がありますけど、よく瞳の色に合わせたものだけを摘んでこられたものですわね」
そう言うとアンはくるりと踵を返して忙しそうに部屋を出て行った。わたしはまだ寝巻きのままで、満月のあの夜を思い出していた。
ロシナンテの瞳に映る丸い月。
あれから月は少しずつ欠けていった。
つまり、『真っ赤な薔薇より菫がお好きですよね』ということなんだろうけど――。それ以上に深い意味はない。ロシナンテはいつまでもわたしの秘密の『お兄様』だし、それに彼の表情を読むのは十年経った今でも難しい。
まぁ、気まぐれ、かな。
子供の頃はよく、あげたりもらったりしてたし。シロツメクサをたくさんわたしが摘んできて、人間と同じ指先で、器用に花冠を作ってくれたこともあった。
長い間一緒にいると、そういうこともある。
「お嬢様! まだお着替えにならないのですか? 朝食の時間に間に合わないとまたロシナンテ様に怒られますよ!」
はーい、と気の抜けた返事をする。
『ロシナンテ様』は、半獣であるにも関わらず、家の使用人たちに尊敬されている。執事にさえも。
どんな仕事も嫌がらずするし、そして作業は手早く正確だ。人当たりもよく⋯⋯と言っても冗談を言うところはほとんど見たことがない。それでも使用人たちはロシナンテを慕っている。
人望? いや、ロバだから。
◇
初夏の日差しはわたしには眩しすぎてつい目をつむってしまう。窓の外は貧しいわたしの庭園が見える。なにが貧しいのかというと、まず野草のような花がほとんどだから。
あの日、ロシナンテにあげたようなどこにでも生えていそうな花ばかり植えている。庭師のジャックもさぞかし手入れが楽なんじゃないかしら⋯⋯。
コンコンコン、と誰かのノック。
「なにかしら?」
「ガーラント様がいらっしゃってますが。お約束なさってますか?」
「いいえ。でもお会いしてもいいわよ、暇を持て余してたところだし。散歩くらいはつき合ってくださるでしょう?」
「ではそのようにお伝えしましょう」
ガーラント様か⋯⋯。良さそうな人だな、とは思う。大人しそうだし、見た目も美しくてスラッとしている。でもどこかしら⋯⋯わたしに比べたらどなたでもそうだろうけど、大人びていて話が合わない気がする。難しい。
「ニィナ様、突然の訪問、受けてくださってありがとうございます」
「お座りになって。別にいいんです。ガーラント様のお陰で次の歴史の授業をサボれますもの」
ガーラント様は首を少し捻って、わたしを見た。
「ニィナ様は歴史がお嫌いですか?」
わたしは顔から火が出そうになり、消火活動に専念しなければならなくなる。こんなこと迂闊に喋るんじゃなかった。特にガーラント様は博識のようだし。
「いえ、あの⋯⋯」
「勉強は退屈ですよね」
やさしく言われてなんだか気持ちの行き場所に困る。仕方なく、こくんとうなずく。ガーラント様はやさしく微笑んだ。
「特に歴史は領土間の争いや政治的側面について語っているものが多いでしょう。お嬢様が興味を持てないのも無理はないです。私にだって難しいですから。
では歴史は必要ではないかというとそういうわけではなく、先人の行いを見ることで学ぶことはたくさんあるのです。ああすれば、こうなるというのがわかります。
ヤゲン洞窟の鉄鉱石を勝手に採掘した時⋯⋯」
「ドワーフの反乱がありました!」
「そうそう、そういうこと。そこに資源を見つけたら、誰のものなのか確認すれば争いにならずに済むのです」
「⋯⋯でもそれは当たり前なのでは? 領地のものは領主のものでは?」
「そこが難しいところで、領地のものはすべて自分のものだと領主は考えがちです。しかし、そこには昔から住んでいる部族や種族がいる。彼らの意見も尊重した方が良いでしょう。
一方それを良しとしない者もいる。貴族の威光にかけて、自分の領地のものは誰にも渡すべきではないと思う者もいるのです」
難しい。
わたしの歴史の教師はこんな話はしない。
いつどこでこんな事があり、戦争になり、誰が勝ち、その戦いの結果はどのようになったのか、その土地の政治がどのように変わったのか、それを分厚い教科書を手に、図解しながら教えてくれる。
でも、そこにはわたしの考える余地はない。
だってすべて過去に起こったことで、わたしがなにを言おうと、なにをしようと変わりようがないのだから。
なのにガーラント様のお話を聞いていると、わたしの頭はなにかの正解を見つけようとする。例えそれが過去の変えられないなにかであったとしても。
「はは、すみません。僕はついなにかに熱くなってしまう悪い癖がありまして。お嬢様の勉強の妨げにならないようにしなければ」
彼は恥ずかしそうに俯くと、まるでその姿はわたしと変わらない年頃のように見えた。もう、二十四になると聞いているのに。
それは失礼な考え方だと思ったけど、でもわたしはこの事でとても親しみを感じた。歳上の方だから話がわからなくて当然、という考え方は間違っていたみたいだ。
そう言えばロシナンテだって同じだ。正確な年齢はいつになっても教えてくれないけど、歳上に違いないのにわたしたちの間にはいつでも親しさがある。
人を見た目で判断するのは間違いだ、という当たり前のことを学んだ。
◇
日差しを避けるようにわたしたちは二人きりで歩いた。
侍女頭のリリーは婚約前の男女が、たった二回会っただけで二人きりで散歩をするなんてよろしくない、と怒ったのだけど、相変わらず何事も顔に出さないロシナンテは「よろしいんじゃないですか? ガーラント様の
彼の視線は窓の外、つまり庭園の方を向いていた。丸い瞳に映るのは、過去のわたしたちの思い出かしら? それともわたしとガーラント様が歩く姿を想像している?
⋯⋯どちらにしてもロシナンテは感情に流されたりしないし、合理的なことしか言わない。なにかを期待しても⋯⋯なにをだ? ロシナンテに希望するなにかなんて、ない。
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