第4話 菫色

「はぁー、疲れた!」


 部屋に戻るとまず靴を脱いだ。踵が痛い。やっぱりヒールの高い靴なんて夢のまた夢なのかもしれない。


 ソファに横たわってだれていると、アンがお菓子を持って来てくれる。

 それはさっきアフタヌーンティーの時にテーブルに出ていたもので、わたしが食べたいなぁと思いつつ、作り笑いばかり浮かべて食べられなかったものたちだった。


「お茶もございますよ。お砂糖はお二つですね」

「ありがとうアン、大すき!」


 そうとなったらお茶が冷める前に楽な服に着替えなければ。気張った服じゃ、お腹に入らない。


 ······これからこんなことがどんどん増えるのかな? おめかしをして、殿方にお会いして、できれば気に入っていただいて······。


 そこに『恋』が入る余地はあるのかしら?


 姫に生まれたから政略結婚をしなければならないというケースはよくある。でも、その結婚相手をすきになれば、そして相手もわたしをすきになったくれれば、『恋』は成立するかもしれない。


 でも、やっぱり······ああ、なんかダメ。


「お嬢様、しっかり立って下さらないと。スカートが履けませんよ! その格好では部屋には戻れませんから。

 いくらロシナンテ様が幼い頃からのつき合いとはいえ、スカートを履かずに会うわけにはいかないでしょう?」


 侍女頭のリリーがそう言った。

 ロシナンテの前で、素足を晒せと!

 ······有り得ない。そりゃ、小さい頃はまだスカート丈も今より短かったし、ロシナンテに抱っこしてもらったこともあるけれど。もう十六になるのに素足を殿方に見られるのはちょっと······。


 !?


 殿方! ロシナンテが殿方のうちに入るとわたしの頭は思っているの? ロシナンテだっていつも言ってるじゃない。何度も何度も聞いた台詞。


「ロシナンテは半獣で、殿方ではないわ」


「まぁ!」とリリーは大きな声を上げた。

 腰のリボンが結ばれると同時にわたしは衣装部屋を出て自室に向かった。


 ムカつく。ムカつく。ムカつく。

 そんなことを言った自分にムカつく。

 そんなことを言わせるロシナンテにムカつく。

 ロシナンテがわたしにとってただの半獣なわけ――。


 角を曲がったところで、向こうからロシナンテがこっちに歩いてくるのが見えた。手になにかを持っている。相変わらずひと目で気持ちのわかる表情じゃない。


「お嬢様、侍女も連れずにどうなさいましたか?」


 昔のように走り寄りたい気持ちが自然と湧いてくる。だってロシナンテは実の兄より一緒にいた時間がずっと長い。毛並みの良い顔をしていても、わたしには兄同然だ。


「なんでもないの。早くお菓子、食べたくなったから脱出してきただけ」


 その答えに彼はくすくす笑った。よかった。機嫌が良さそうだ。彼の顔は表情が読みづらい。


「そうですか、では早くお部屋に戻りましょう。⋯⋯お嬢様はやはりまだ子供ですね。縁談が来ているとは思えない」

「失礼ね、わたしだってもうすぐデビュタントを迎えるのよ。ワルツだって踊れるし」

「靴の踵がまた折れないとよろしいですが」

「⋯⋯意地悪」

「さぁ、では踊るような足並みで参りましょう」


 どんなんだよ、と思いながら慎ましやかに歩く。ロシナンテが振り返って左手を出し⋯⋯エスコート?

 恐る恐る、その手に近づく。


 えーと、一応ロシナンテは家臣になるわけで、わたしはエスコートされて良いものかしら? 子供の頃ならまだしも。


「お嬢様、お早く」


 はい、と反射的に答えて手を出す覚悟をすると、ロシナンテの手にはささやかな菫の花束があった。わたしは一瞬、そのことを飲み込むのに時間がかかり立ち止まってしまった。


「昔から菫がおすきだったでしょう? お忘れでしたか?」

「······忘れてないわ、これっぽっちも。ただ、魔法みたいに突然現れたから驚いただけ」

「よろしければお部屋に飾らせましょうか?」

「うん。そうして」


 小さな花束は細い黄色いリボンで束ねられていた。黄色は幸運の色。知っててそうしたのかはわからない。けど、いつでもロシナンテはわたしが落ち込んでいる時、そっと助けてくれる。


「お嬢様、パーティーの時は気をつけてくださいね。残念ながらロバにはどうしたって入ることができないのですから、こんなことがあってもお助けできなかった」

「ごめんなさい。······でもロシナンテのせいじゃないわ」

「当たり前です。私なら幼いお嬢様にワインを勧めたりしませんよ。それくらいなら私が先に飲み干しておきます」


 思わず、お腹を抱えて笑ってしまう。くっくっくっという笑いは、多分、気品ある『お嬢様』に相応しくはない。それでも笑いが溢れる。


「笑い事ではございません。まったく、今夜も頭を冷やしてお眠り下さい」

「だって仕方ないじゃない。珍しい赤い眼をした紳士が暇そうにしていたわたしに話しかけてくださって、その話題がワインだったんですもの」

「赤い眼の紳士?」


 ロシナンテは焦ったように早口でそう言った。


「もしかして、知ってらっしゃる方なの?」

「いや······そのうちお嬢様もそのお方とまたお会いすることになるでしょう」

「デビュタントの後、パーティーに出られればね。あー、でもそれまでにガーラント様かヒューズ様との婚約が決まってなかったらの話だけど!」

「······婚約はお嫌ですか?」


 ロシナンテは丸い瞳でわたしを見た。ロウソクの灯りが目に映っている。


「うれしくはないわ。まだそんな歳じゃない気もするし、もっとロマンティックな出会いがあるといいなって子供の頃から思ってたし。それに第一、まだときめいてないもの······」


 そこまで言ってハッとする。なにを馬鹿げたことを。ロシナンテ相手だからって、子供っぽいことこの上ないじゃない?


 ロシナンテは拳を口元に当てて、なにかを考えているようだった。でも相変わらず、その気持ちは表情からは窺えない。


 彼は息を吸うと一言「ロマンティックでないのは確かにお嬢様の好みではないですね」と言った。それに意味があるのかないのか、わたしにはわからなかった。


 窓の外をふと見ると、小さくて丸い月が浮かんでいた。


「ねぇ、今日、満月よ」

「そのようでございますね」


 満月には魔力を高める力があるという。

 そして、その満月はロシナンテの丸い瞳と似ているような気がした。

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