第2話 ロシナンテと、摘んできた花束
鏡で見たわたしの顔は、確かに記憶にあるわたしの顔だった。
であって、確かに記憶のある見慣れた『
あの、黒い髪、少し茶色い瞳、オフィスメイクを施した顔は美人とは言えなかったけど、それなりに愛嬌のある顔だった。
けれど今、わたしの髪はプラチナブロンドの巻き髪で、肌はなにもつけていないのに雪のように白く、頬は自然な薔薇色に染まっていた。かわいらしく少し上を向いた小さな鼻と、アヒルを思わせるやわらかな唇。
そして瞳はアメジストのように澄んだ紫色だった。
鏡を、自分に寄せてよく見る。紫色に吸い込まれるように。
――若いっていいな。まだお肌の曲がり角を知らないんだろうな。二十五を過ぎるとお肌は曲がる。
「お嬢様、幸いなことに顔にお怪我はないようですわよ。そんなにご心配されなくても見目麗しさは変わっておりませんわ」
アンが鏡の中のわたしに語りかける。
そうか、新名美幸は多分、この子とひとつになっちゃったんだ。
だとしたら、ひとりでわたしを育ててくれたお母さんを泣かせることになったかもしれない。その顔がまぶたの裏に見えそうな気がして目を伏せると······なぜか大好きな母の顔は曇ってよく見えなかった。
「心配かけて悪かったわ、アン。わたし、ロシナンテの言う通り、少し眠るわね」
「そうなさった方がよろしいかと。ロシナンテ様も安心なさいますわ。ではまた明日。何かありましたら遠慮なくお呼びください」
ベッドサイドには呼び鈴が置かれていた。
こんなもので寝ている人を起こすなんて、そんなことは起きないように祈ろう。誰かの健やかな眠りを破るのは大罪だ。
なにか、考えなければいけないことを忘れてる気がする。それはとても大事なことで。
わたしの魂は一体どうしちゃったんだろう?
この子の身体に入ってしまって、この子の将来を台無しにしてしまうかもしれない。
だってわたしは二十六、アラサーの女で、彼女はまだ十六になろうとしてるところらしい。
どうか、わたしの魂がこの子に災いをもたらしませんように。
それだけを、一心に祈った。
「ニィナ様、おはようございます。今日は二組の来客が予定されております。
天気が良さそうですので、庭園のガゼボでのアフタヌーンティーになさってはいかがでしょうか?」
「ねぇ、ロシナンテ。あなたとわたしの仲だもの。よそよそしいのはやめて。率直に言うとどういうこと?」
「周りに誤解されるような発言は控えていただきたいところですが」
こほん、と彼は咳払いをした。
「要するにあの薔薇の贈り主の二方が、お見舞いを理由にお嬢様に会いにいらっしゃるということですよ。
向こうも本気ですね。何しろ美姫と領土がセットでついてくるわけですから」
「それは言い過ぎ。そういうのはやめて。ちゃんと自分の立場はわかってるから、そういう風に責めないで」
「······申し訳ありません」
ロシナンテに罪は無いのだ。それは十分わかっている。
ロシナンテは物心着く頃、どこからかやって来た。
わたしが普通ではないその男の子に驚いていると、お父様が「今日からお前の遊び相手をするロシナンテだ。ロバの半獣だけれど頭のいい子だ。きっとお前にいろんなことを教えてくれるだろう」と言った。
わたしは目の前にいるロバに、何を言ったらいいのかわからなかった。ただ口を開けて、ロシナンテをじっと見ていた。
ロシナンテは二足歩行するロバ以外のなんでもなかった。
ただロバと違うのは、前脚は人間と同じ五本指であること、人語を解すること、そして知性的であること。それらを考えると、彼はただのロバでは決してなかった。
その時も白いフリルのついたシャツを着て、サスペンダーのついたツイードのパンツを履いていた。脚は蹄で、要するに裸足だった。
むき出しの部分は美しいツヤのある栗毛で覆われ、鼻先は清潔感あふれる白で、きちんと手入れされていることがひと目でわかった。
――もしかしたら、何かの間違いで生まれてきてしまった、身分の高い貴族の子供なのかもしれない。或いは、なにかの呪い? 大好きな絵本の影響で、わたしの妄想は膨らんだ。
唖然としたままのわたしを見てロシナンテは「どうせなら触ってみては?」とまだ小さかったわたしの手を握った。その手はやわらかく、温かだった。そうして、わたしの手は彼のいわゆる鼻面に触れた。
「そう、馬にやるように撫でてみてください」
やわらかだった。一言ではいえない感触。
彼の毛並みに沿って、手を滑らせる。
「お気に召しましたか?」
ロバは、にこやかに笑ったように見えた。四角い歯を見せて笑ったりはしなかったけれど。
「うん、ロシナンテは毛並みがとてもキレイね。お父様の馬よりずっとキレイだわ」
今度はロシナンテが唖然とする番だった。
わたしの顔をじっと見て、心の奥をのぞかれているような気がした。
「お嬢様もとてもかわいらしいです。正直、こんなに愛らしい方のお世話をすることになると思っておりませんでした。よろしければ私の方が年上ですので、いろいろ頼りにしていただけるとうれしいです」
「ロシナンテはいくつなの?」
「そうですね。お嬢様より五つは年上かもしれませんね」
「五つ! それはすごいお兄さんてことじゃない。ロシナンテのこと『お兄さん』だと思っていい?」
そこでロシナンテはピタリと止まった。
子供ながら、バカなことを言ったものだと思った。
いいですよ、なんて従者が例えわたしの機嫌をとるためでも言えるわけがなかった。
それに、わたしには実の兄がいた。お兄様は少し歳が離れていて、首都にある貴族のための学校の寄宿舎に入っていた。
実の兄はとてもやさしくしてくれたけど、それはうわべだけだと幼いわたしでもわかった。なにしろ年に数度しか会わないわたしに愛情を抱くのは子供には難しいだろう。
その丸い瞳は小さなわたしをじっと見ていた。なにを考えているのかはまったくわからなかった。そういうところはやはりロバで、気持ちを読むということに関してはロシナンテの方が上なのは紛れもない事実だった。
「『お兄さん』は無理ですが、旦那様に遊び相手として連れてこられたわけですから『お友だち』だと思われても構いません。しかし、それは二人きりの時だけですよ」
「うん、わかったわ」
わたしはその時摘んでいた野草の一束を彼にあげた。
「仲良しになるためのプレゼントよ。気に入ってもらえるとうれしいんだけど」
そこにはクローバーやタンポポ、菫やヒナゲシがぐちゃっと頭を垂れて咲いていた。振り回したからだ。
それでも彼は顔色一つ変えずに、そっと大切そうにその花束をもらってくれた。
「ありがとうございます。僕は菫がすきなんです。儚げで美しく、愛らしい。まるで⋯⋯」
記憶はここで終わり。
執事のトーマスが走って迎えに来た。晩餐の時間だった。「まるで」の言葉の続きを聞くことはなかった。
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