落ちぶれ伯爵令嬢は政略結婚より政治を学んでロマンスを選ぶ
月波結
第1話 真っ赤な薔薇
「まったく、お嬢様のお陰でこんなことになってしまって! 部屋中、薔薇臭くてやってられませんな」
このロシナンテ、嗅覚は人間以上なんですよ、とピンと耳を立てた二足歩行の半獣はそう言った。
⋯⋯イライラしてる。
半獣といえども、侍従長という身分のため、上から下まですっかり人間の紳士と同じ服装をしている。違いがあるとすれば、後ろ脚だけが蹄のため、裸足で靴を履けない。
ベッドから部屋を見渡すと、見事に溢れんばかりの薔薇、薔薇、薔薇。しかも全部、赤。
城中の花瓶を持ち出したのではないかと思うくらいの薔薇の山。
なにを思ったらこんなことになるのかまったくわからない。しかもこれがわたしのせいだというのが納得いかない。
「大体、ウェーザー侯令息もライオネス伯も大人気なくムキになって。
お嬢様のお心を射止めたいという下心は見え見えですが、男女の間にはもう少し繊細な思いやりのようなものがあってもよろしいかと。
ロバなりの見解で申し訳ありませんが」
ベッド脇に赤毛でそばかすのある女の子が慌てて二通の手紙を持ってくる。この子はわたし付きの侍女、名前はアン。気が利いて、笑顔の似合う子だ。
手紙にはロシナンテの言った通り、ウェーザー侯爵家とライオネス伯爵家の紋章が押された封があった。なんだか重々しい。
まったくどうして······と思うと、右後頭部がズキンとひどく痛む。手をやると、そこには包帯が巻かれている。ビックリして「キャッ」と声をあげてしまう。
「お嬢様!」
アンが心配そうに駆け寄る。
そう、あの時――。
◇
あの時わたしは確かに残業をしていた。一生友だちにはなれそうにないExcelの画面とにらめっこして、数字を見ていた。
八階のオフィスの窓から見える風景は真っ暗で、早く家に帰りたい一心だった。
うーん、と唸っていると最近、婚約の決まった課長がご機嫌で「
ラッキー、と思ったのを覚えている。
「それでは」と荷物をまとめて立ち上がろうとしたところで、事務用のイスがいつも以上の働きを見せて鋭く回転した。
――結果、わたしは体勢を崩して転び、右後頭部を強く、打った······?
お母さん、泣いてる?
わたし、どうなったの?
◇
ガバッと起き上がるとやはり傷が痛む。「お嬢様!」とアンとロシナンテが走り寄ったけど、わたしは「鏡! 鏡を見せて」と叫んだ。
――思い出した。
昨日はまだデビュタント前なのにお父様とお母様に連れられて公爵夫人のパーティーに出席したんだ。
デビュタント前ということは要するにお子様ということで、わたしは並べられた食事をお皿に取っては一口、隣の皿を一口、とつまらない運動をしていた。
そこにイケメンの珍しい赤い眼をした金髪の紳士が現れて「このワインは夫人のコレクションの中でも最高級のものだそうですよ」と微笑んでフルーツの盛り合わせを持ってきてくれた。
笑顔が素敵で「でも、飲みすぎは気をつけて。お酒は大人の飲み物だからね」とグラスを渡すと人混みに紛れて姿が見えなくなった。
またひとりになってしまったので手に持っていたワインを、とりあえず一口いただく。
子供だから、と言われたけど、ワインくらいは飲める。今年、あと数ヶ月でデビュタントを迎えるはず。だって十六歳になるのはもう少しだから。デビュタントさえ終われば公式にも大人だ。
こんな壁際にいなくても、きっと誰かがわたしをホールに誘い出してくれるに違いない。ワインを片手に考える。
その人は、どんな人だろう?
背の高い人かしら?
それとも社交界慣れした少し年上の紳士かしら? 若々しくて笑顔の素敵な人かもしれない。
想像ばかりが膨らみ、わたしはすっかりいい気分になってしまった。
「――令嬢!
困った人だ、忠告したのにこんなに飲んでしまわれたのですか?」
「ああ、先程は親切にありがとうございました」
「とりあえず少し風に当たりましょう」
赤い眼の紳士はわたしを連れてバルコニーに出た。夜風は肌寒いくらいにピリッとして、意識を少し呼び覚ます。ホールからは何度も練習したワルツが、オーケストラの演奏で流れてくる。賑やかで華やか。
わたしは紳士の顔を見上げた。それはそれはこの世のものとは思えない整った顔立ちで、さっきはよく見えなかったけど、その瞳の輝き、通った鼻筋、少し憂いを帯びた長いまつ毛、すべてが絵本の中の出来事のように思えて、気持ちがふわっとなる。
紳士はバルコニーを歩き出したわたしに連れ添うように歩いていた。そこでわたしは自分がこの世でいちばん幸せな女の子のような気持ちになってしまった!
「まぁ、ご覧になって! 夫人の庭園は薔薇が見事に咲いていらっしゃるわ。わたし、薔薇の中でも赤い薔薇がいちばん好きなんです! あなたの瞳も······」
くるっとワルツに合わせてターンしたら、履きなれない靴の踵に重心が移ってしまい、しまった、と思った時には遅かった。
わたしは多分、あのバルコニーで、あの紳士の目の前で転倒した······。
――その後のことはあまり覚えていない。
頭がズキズキするのは当たり前だ。
あれだけ
記憶が曖昧になる。
あれ、わたし······。
「鏡をお持ちいたしました」
その金縁の鏡にはなにやら装飾がされていたけれど、そんなことは問題じゃなかった。
わたし。
わたしはそれで誰なの? どっちなの?
わたしの顔は――。
「············」
「お嬢様、失礼ながらあまり興奮されますとお身体に障ります。このロシナンテ、仮にも旦那様からお嬢様をお預かりしている身、少し安静にしていただかなくては」
「ロシナンテ······」
わたしはロシナンテに手を伸ばした。子供の頃のようにその毛並みのいい茶色い頬に手を伸ばした。驚いた彼が長い漆黒のまつ毛をバサバサさせて目を伏せる。丸い瞳がパチパチする。
「お嬢様、なにも難しいことはお考えなさらずに、少しお休み下さい。ホットミルクを持たせましょう」
「······寝るまでそばにいてくれる?」
ロシナンテは口を閉じてしばらくわたしの顔を見つめていた。
「そのようなことは子供のすることです。しかも私は卑しい半獣の身。もうすぐ大人になるお嬢様の寝顔を見るわけにはいきますまい。ゆっくりお眠りくださいね」
もう一度、丸い瞳はわたしの目をのぞきこむように見て、そして耳をピンと立てると部屋を出て行ってしまった。
たてがみと同じ、ツヤのあるダークブラウンの尻尾がだらりと垂れていた。ご機嫌ではないらしい。
それもそうか、わたしのしでかしたことを考えれば。ロシナンテはわたしの側仕えとして、お父様にキツく叱られるに違いない。
今、うちは没落寸前の危機を迎えている。――それを救うための捨て駒である一人娘のわたしに、傷をつけた罪は決して軽くないだろう。
涙が出てくる。
白いミルクにわたしの顔は映らない。
わたしは――。
一体わたしは――。
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