第17話

 解決できるならするのだが、なにせ最近は彼女の家へ行くと連絡しても面倒らしく大抵の仕事などの話も先延ばしにし、僕が関知していない時には錯乱してリストカットなどをしたり物に八つ当たりすると彼女自身やおばさんが教えてくれていた。精神安定剤を飲めば落ち着くらしいが、その副作用の気だるさが彼女は嫌らしく、あまり自分からすすんで飲んでいるわけではないようだ。僕はそれでも安定剤を飲んで落ち着いている時の彼女はまともに見えたし、だるいとかいう風には見えなかった。だから僕は彼女に気を遣わず話し続けていたりするのだが、長く話していると彼女はひどく疲れた顔をした。頭があまり回らないらしい。でも安定剤を飲むと確かにリストカットも不安定な行動や言動も減るようだし、理性的でリラックスして見えたから僕はそもそも問題視するべきことではないと思っていた。だが彼女は精神安定剤を飲むと副作用で僕の話に集中できなくなると話し、飲まない状態で話を聞きたいということらしかった。でもやはり飲まないと精神的に苦しくなり、今のように急に電話をかけて淋しそうにめそめそしたり、自分の命を捨てたいだとか消えてしまいだとかの種類の弱音を吐くようになった。鬱だろうか、と僕は思った。僕は大抵電話やメッセージを送り合ったりして彼女の辛い心情をぼんやり見聞きしていたが、それらは大抵大した問題や緊急に解決が必要なことではないようだった。だが彼女に反発するようなことを言えば敵対心をもってやり返されるので僕の方では心を閉ざしがちになった。僕は彼女の存在が以前とは違うものにゆっくりではあるが大きく変異していくのが分かった。以前のように冷淡なときはあっても笑うことのできる彼女でなくなったのは僕には彼女の心の原形の喪失ではなく変貌として考えられた。彼女が以前の理性的な彼女に戻ってくれればいいと僕は願った。僕はいつだかに離婚した相手に何か理不尽なことをされたか訊いた。彼女は浮気されただけで暴力などは振るわれなかったと答えた。僕はどうしても彼女の精神状態を悪くした原因を突き止めたかった。だが既に答えは出ていた。単純に言うならストレスのためか遺伝子のためか、運が悪かったから病にかかっただけなのだと。偶然そういう病にかかり、苦しむという宿命を負い、悲しみの傷の痛みに耐えながら生きていかなければいけなくなった。


 そして僕が考えたのはこれからも彼女と一緒に居るべきだろうかということだった。彼女は僕にとって徐々に手に負えない女性になってきていた。しかしもう一方で惹かれるようなものがまだ冷めないでいた。彼女を愛そうとする激しさはほとんど衰えていなかった。だから僕は問題を解決しなければいけなかった。彼女と僕との間に生じている薬の効力に対する噛み合わない価値観をどうにかしなければいけないと思った。そこで兄の知り合いに精神医療に携わるY先生という人がいてその人に助けを求めてみればいいだろうと告げられ、僕だけでも彼に会いに行くことにした。 大学の狭い一室にY先生は居た。部屋は本がたくさんあって乱雑だったが分野ごとに区分けして積み立てられていた。彼はソファを大学の研究室に置いてその上で寝ていた。彼は頭の良さそうなずる賢そうな逆三角形の顔の輪郭をし、細く鋭い目をして部屋に入ってきた僕を睨んだ。彼は天然パーマで背中にまで届く長い髪型にしていた。


「Y先生ですか? 僕は精神病の彼女のことについて相談しに来たんです」


 彼はまだ相手をする気が起きないらしく、ソファで横になりながら僕を見ていた。


「精神病ったって幅が広いからね。医大の先生を紹介しようか」

「いえ、精神病院には通っているんですが、薬を飲みたがらないんです」


 彼はふん、と鼻息を漏らし億劫そうに体を起こした。案外背が高いらしく176センチの僕より大きいようだった。


「相談ったってその先生に任せばいいんじゃないの? それよりも本当は君が誰かに話をしたいんじゃないのか?」


 僕は盲点を突かれたような気がした。恋愛の事情というものは誰にとっても複雑なものだろうし、彼女が変わる気がない限り僕が何を言ったとしてもそれで問題が改善されるとは思えなかった。僕が誰かに問題を打ち明けることで僕自身の正当性を証明しようとしているのではないかとも取れる。僕は自分の恋愛の複雑さを彼女の精神病のせいにして誰も傷つけないようにしているとも思えた。それで物事をやり過ごそうとして問題を先延ばしにしようとしているのだった。だがこの問題は今まで長い間僕が放置し続けてきたことだった。彼女でも病院の先生でも僕でも解決できない問題を僕は打ち明けることで痛みをこらえようとしているだけなのかもしれない。彼女への恋を終わらせるか、苦しみながらも続けるかの二択しか僕には残されていないように思えたし、実際そうなのかもしれない。僕はそのような選択の前に立たされることにずっと怯えてきたし、事実を言うならこれからも居たくなかった。だから人間と本気で付き合わない方が気楽だっただろう。だが僕には本気で人と付き合おうとしないことがあまりにも孤独だったから、それから逃れるための彼女という同属を見つけて嬉しかったのだった。僕は自分を変えようとしたが結果として痛烈で恐ろしい選択の前に立たされている。その前では怯え続けることしか出来なかったが、僕は今確かに立ち向かっている。その空恐ろしい確立された問題の前に。


 僕は数々の問題を彼に打ち明けた。彼は物静かに聞いていた。僕は彼女との恋愛のことも打ち明けた。彼はどんなことにも答えを出さなかった。それは君自身が答えを持っていて、それを引き出さなければいけないんだよ、とでも伝えているようだった。


 そうして悩み相談が終わり、僕は彼に向かって会釈をして帰った。僕はある結論に至っていた。僕は彼女と別れることにする。彼女がいつしか僕に本気でぶつかってきてくれるのに対し、僕はいつまで経ってもへらへらと人と人の間に暗く存在させる黒い壁をつくっている。だから僕は正直に彼女に打ち明ける。彼女に僕の本当の気持ちをぶつけて、それでようやく僕は自分に満足できる気がした。


 十二月二十四日になり、僕らは以前行った洒落た雰囲気の暗い喫茶店に行き、静かに彼女に告白した。


 そのとき彼女も暗い顔をしていた。彼女はこれから何が起きるか予感しているようだった。


「塔子、ごめん。僕はもう、君と付き合いきれない。君はあまりにも重すぎて、僕の心が折れてしまいそうなんだ」


 コーヒーが運ばれるまで僕らは無言だった。コーヒーが運ばれた時の心の揺れに動かされたように彼女は口を開いた。彼女は泣いているようだった。


「分かってたわ……私達、あまりにも秘密が多すぎたものね。私は精神病らしいし、それを隠してきて、良次君もなにかを理由に本心を隠してたよね」


 僕は彼女の涙を予感していたが心の動揺は凄まじかった。僕はこの時自分に人間らしい一面を見た。だがそんなことはどうでもいい気がしていた。


「いいわ。私もいつこんな日が来るかって怯えていたし、さようならを言ってさっぱり別れましょ」


「……さようなら」

「さよなら」


 あまりにもあっさりと別れの瞬間は来てしまった。今までの心の揺れが嘘みたいに消えていった。あっという間の出来事で僕は心に空白が出来たようだった。空白を埋めるためにしたことが他の部分に空白を生んだようだった。

 彼女はコーヒー代を置いて出て行った。僕はしばらく京子の姉を苦しめたことがなぜだか正しいことのように感じられていた。それが本当の気持ちだったから間違ってはいないのだと僕を慰めているようだった。

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