第13話

 十三回忌の儀式を寺で行う準備をしに約束した時間に塔子の家を訪れていた。僕はあまり眠れなかったし、暗く沈んだ気持ちでいた。塔子は髪を後ろに結って前髪を斜めに下ろし、薄く化粧をして黒のロングワンピースを着、和室で白湯を飲みながら待っていた。彼女は白湯が健康に良いと深い部分まで理解していたのでよく飲んでいた。僕は父の葬儀用の黒いスーツを着、何か飲むかと彼女に訊かれたので同じく白湯を頼んだ。外は雲がかかって雪が激しく降っていた。来る途中すべって転びそうになり、僕は塀に手のひらを衝突させてしまって軽い怪我をしていたので、絆創膏を貰って貼った。


「革靴なんて履いてくるからよ。冬用の靴買わないでしょ? 昔から」

「小さい頃からだったっけ?」


 僕は自分自身の昔のことを尋ねたが、彼女は何も答えなかった。僕は京子を失ったあたりの記憶がすっかり抜け落ちているので、自分自身の身の周りのことも分からなかった。僕はそれがとても複雑な問題に思われてしょうがなかった。大切な記憶を失っている部分を会話に出されると僕は不安だった。それに、京子の死の原因や塔子との遊びの記憶まで失われているのは、切実なくらい僕を不安な気持ちに沈ませていた。


「親戚は来ないの?」


 僕は塔子にそこそこ踏み入った質問をした。


「親戚とはあまり仲がいいわけじゃないのよ。かといって、悪いわけじゃないんだけどね」


 彼女は僕の顔色を窺うように言った。京子の死の話題について敏感になっているのは彼女も同じらしかった。なにせ、子供が冬に川で溺れ死ぬというのは凄惨たる様子だったろうし、彼女もそれを見ていたわけだから。そしてもっと一線を越えるようなことを考えるとすると、嫉妬のあまり彼女が京子を殺したのではないかという更に僕とおばさんを恐怖の淵に落とす考え方もあるのだった。僕はなんだかそれが気になっていた。小学五年生ならば何かしら未必で行ってしまったりもするのではないかとも考えられた。それだけでも恐ろしい考えだが、僕は塔子の表情や常日頃の病的な行為からして、そういったものの捉え方もできてきそうだったから、そういう系図にまで実際繋がりそうに思えていた。


「良次くん。こういう日だから訊くけど、あなたは京子のことをどういう風に好きだったの?」


 僕は塔子の唐突な質問の意図を測りかねた。


「どういう意味?」


 彼女は封筒を座卓の下から取り出した。封筒から幾らかの便箋を取り出し、僕の前に添えた。


「京子は、あなたのことが本当に好きだった。たまに考えるのよ。もし彼女が生きていたらあなたと付き合っていたか、私と付き合っていたかってね」


 彼女は不安定で神経質な笑みを浮かべて、必死に何かの衝動を抑えているようだった。


「私、彼女のあなたへの思いを尊重して、恋するのを必死にこらえてきたのよ。あなたを愛するためには京子が段々邪魔に思えてしょうがなかったの。でも、十三回忌になった今日なら、本気であなたを愛していいって思えたのよ」


「なんだよ。怖いよ」


 僕は彼女がなにを言い出すのか恐ろしくてたまらなかった。だが彼女はゆっくりと冷静な自分を取り戻し、その何らかの衝動も消え失せていったらしかった。


「……ごめんなさい。少し精神的に不安定なのよ。私、たまらなくあなたに愛情を注ぎたくなる一瞬があるの。でも、その方法も感情の激しさもどう表現したらいいか分からなくて、それが自分で怖くてたまらなくなるときがあるの。ごめん」


 僕は黙って頷いた。僕もどういう言葉や感情で彼女に接したらいいか分からなかった。ただ彼女の言葉で分かるのは、京子の死に関連することだけが謎なのではなく、京子と塔子の関係も真に謎めいた深い関係だと直感させた。


 塔子は動揺する僕を観察し、困った表情を見せつつも便箋を細く長い指で差した。


「手紙。私がずっと京子から預かってきたの。いつかあなたに読んでもらえるようにと、いえ、本人に見せる気があったかどうかは分からないけれど彼女の子供なりの恋の気持ちが書いてあるわ。本当に純粋な気持ち。今のような精神不安定な私みたいじゃなくて、本当に純粋な子供の恋心。帰ったら読んでみて」


 彼女は便箋を手元に寄せ、封筒に入れてようやく穏やかな笑みをみせた。なんだか久しぶりにその種類の笑顔を見て僕自身も安心した気がした。


「私ね。本心を言うと、塔子が死んだときショックだったの。ただのショックじゃなく、仲間と友人と妹とライバルというたくさんの人間のタイプで頭に強く残っているのに、彼女が死んでしまったことを理解できないで、現実が受け止められなくて、辻褄が合わないショック。頭の中で整理しきれないって感じよ。私、結婚していたときも、なぜだかたまに思い出してたの。京子がいればなって。でも旦那の浮気で離婚でしょ。私、いつからおかしくなりだしたんだろうって、考えるときがあるの。あなたに恋した時からなのか、京子が死んでからなのか、旦那に浮気されたと分かった時からなのか……今はあなたがいると安心する。でも逆におかしくなった何かが突然蘇ってきて暴れだすみたいな感じがするときもある。心療内科にも行ってみたの。でも、詳しいことは分からないって」


 彼女は僕に横顔を見せていた。どうやら窓の外で降る雪を眺めているらしかった。その横顔は大して今述べた事を気に留めていないらしい、彼女が僕に初めて見せる種類の表情だった。まるで他人にも当たり前にこういう悲しい過去があって当然なのだろうという風に理解しているようだった。だからこれも世間話の一つのように特別ではないように感じているようだった。彼女はふいに普段思っていることを喋っただけらしいが、僕にはそれがとても新鮮だったし初めて人間らしいことを僕に打ち明けたように思えた。


 京子が死んだことは僕にも彼女にとっても痛々しい影響を与えていた。塔子にとっては始めの段階から大きな欠落を生んでいた。それらは人生や情緒の面として多くの強い痛みだった。そしてその一面に僕は惹かれ、恐れ、恋愛しているのだろう。僕は彼女の欠落した部分が成長して冷たく静かな印象に変わったことに、強い同情と魅力を感じていた。僕は彼女の痛みを愛しているのだ。そして彼女の美貌だけを愛しているのではないという気持ちをこの時から理解し始めたのだろう。


 彼女の視線の方を僕は追ってみた。雪が庭にしんしんと降り、わずかに突起した庭石の部分がなだらかに傾斜していた。それと岩でできた灯籠の上にも雪が積もっていた。窓が大きいから庭全体が見渡せる。奥の方に葉が失せた骨ばったような木が弱々しく細く、がくがくと折れ曲がって立っていた。その実や葉も無い痛々しい木が僕には印象的だった。僕はこの庭の冷たく殺伐とした映像が彼女の小さかった頃の人生に影響したのではと考えてみた。こういう殺伐とした美しさが人を冷徹にするのではないかと。だが大きな影響かは疑問だった。

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