第10話

 午後七時半を過ぎ、僕はおじさんと駅前で会った。彼は厚手の紺色のジャンパーに上下デニム地の服を着ていて、白い無地のTシャツを着ていた。僕はこんばんは、と彼に聞こえないほどの声で呟いて、手を振った。彼も遠くから手を振った。


 一言二言挨拶と会話をし、僕らはおじさんが勧める居酒屋に向かった。


 おじさんは大ビールを二つ頼み、ビールが運ばれるまでの時間、僕に初めて自己紹介をした。


「桐谷六郎。職業は掃除夫、バツ二です」


 そう言っておじさんは欠けた前歯をニィと見せて笑った。僕も自分の名と通う大学の名を明かし、ビールが来るまで、今までどうやって生き、どういった精神を大事に考え、どれほど大きな失敗をしてきたかを話そうと考えた。僕にはやくざ者が自分の傷跡を見せ合って誇ろうとするイメージが浮かんだ。


 ビールを飲み始めると、おじさんは今までに語らなかった二人の奥さんをどれだけ傷つけてしまい、どれほどそれを悔やんでいるかを伝えた。それには僕への教訓のための意図は込められていないように感じられた。おそらく今回は教師としてではなく、一人の友人として話をするようだった。そして彼は少しせかせかして電話番号の交換をねだった。僕はさっき考えた事柄の幾つかを話した。おじさんは確たる答えというものを言わなかったが、こうしたらいいのではないかというアドバイスをくれた。僕よりも数多くの辛い経験を携えて生きてきたのだな、と僕は彼に対する尊敬の意を濃く深くした。


 おじさんは饒舌だった。人や世の中を憎んで生きることがどれだけ辛く、自分を傷つける空しい考えかというのも話し合った。僕は世の中を憎むということについては真剣に考えたことはなかった。けれど、両親がなぜ僕を産んだのかだとか、なぜ僕という自我が存在するのかについては考えたことがあり、産まれたことを憎むようなことも考えてきた。おじさんの言うように僕は世の中を空しいものだと感じたことがあり、どうすれば解決するのかなどを訊いた。おじさんは人生とは過ぎて去っていくだけのものであり、意味も意義だとかいう存在自体ないし、辛いものだよ、あまり気負いしすぎたりしないようにと教えてくれた。僕はそんなものなのかと思うと、幾らか胸の重りが外れて楽になったような気がした。意味や意義を探している周りの連中を羨ましく思わなくていいとも感じた。


 僕は高校生の頃から、多くの同級生らを授業中に大笑いさせるようなことよりも、人生の力を注いで傾けるべき何かや、特別な事を細かく知る方が重要だと考えていた。だから僕はおじさんのような世界に立ち向かった特別な語り手を重要視していたし、尊敬と友愛の情を抱いていた。


 おじさんは敗北者かもしれないし、世界にとってわずかほども重要な存在ではないかもしれない。だからそれらが引け目かもしれない。だが誰かのための何かになれるという彼自分自身のための意義は、僕によって得られることができているらしかった。それが彼は嬉しいのだった。そして僕がついに得た悲しい情報は、おじさんには友人と言える人間が誰一人いないらしいということだった。話相手はいるにはいるが、信用できる人間ではないらしかった。


 おじさんにとって生徒も友人も僕だけだった。


 僕はおじさんの人生を細かく詳しく深く知っていた。そしてどれだけの悪いことをしてきたかも聞いていた。だからこそ彼が僕と出会うまで心の奥底までの孤独を感じていたと知ったとき、同情と深い慈しみを禁じ得なかった。けれど僕は彼を僕の知り合いの誰とも会わせたくなかった。彼への同情は僕だけのものにしたかったし、僕は彼を独占したいと考えていた。僕はこういうズルいことをするときの人間の笑顔は、見ている人を喜ばせる力があることを知っていた。その力の醜さを自分の心の中が何度も感じてきたが、僕はもう一度それを実感した。


 それからしばらく安い酒のツマミなんかを噛みながら盛り上がっていると、話が僕の彼女の方に移ってきた。僕は彼女のことを精神病などと関連付けたくなかったが、おじさんはそのような指摘をした。そして場が少し気まずいものになった。どちらが謝るでもなく話は他の方向を伝わっていった。その時、酔っていてもおじさんの苦笑だとか、イボの質感だとかが何故か鮮明に頭に残った。フラッシュバックというやつと酷似しているようだった。僕はいわゆる精神的打撃というのを受けたらしかった。それはすぐに消え、一時的だったが。


 僕とおじさんは形だけでなくしっかりと握手をして別れてそれぞれの家の帰路へと着いた。僕はおじさんを仲の良い年上の弁の立つ年寄りという立場として、彼と僕の接点がどれだけ最初は薄く、弱い繋がりだったのかを思い出した。ここまでよく仲が良くなれたものだと思う。知り合っても利点すらないかもしれない人間と話すのはとても気分がいい。責任も無ければ気負いもないのだから。僕は本当にいい人間と出会ったのだな、そう腹の爆発しそうな感情が唸った。なんだか世の中の大きなことがさっぱり分からなくなり、心地よいまま酔った。泳ぐように腕を振りつつ僕は小さな家までの細い通路を辿った。


 僕は家に着いてから人生の中でたまにある空中を落ちるような勢いの強い恐ろしい不安から、一瞬逃れられたような心地がした。それほど気持ち良い酔いだった。僕は塔子の事を忘れたから不安じゃなくなったのかと考えてみると、それが本当に不安の元凶であるように感じられた。僕はそれを振り払おうとほとんど無理矢理に眠りに就いた。

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