第9話

 僕は楽観視して兄の言ったことを忘れようともしたが、それは不可能だった。僕は自分自身という観念がまだ未完成なのを理由にし、人に流されてばかりいるのを、自分自身認めようとしていないことを今更ながら自覚した。


 僕と塔子は薄暗い喫茶店でデートをしていた。橙色の光を灯すシャレたランプが僕らの頭上からぶら下がって黒いテーブルの上を照らしていた。テーブルの上には花が器に絡んだ模様のコーヒーカップと皿があり、中に店主が勧める苦味の濃いコロンビアコーヒーが深煎りで入っていた。そして脇には小さなチョコレートケーキが運ばれていた。僕らはそれを味わいながらそのコーヒーの苦さに辟易した。気取ってばかりで客の好みが分からないんじゃないか、などとなじったりして笑った。でもチョコレートケーキは美味しいものだった。


 僕は彼女の表情を観察した。大人になった彼女と十三年ぶりに会った五月の墓参りの日から、彼女の表情はだいぶ穏やかで僕に安心した笑顔を見せるようになった。その時と比べると僕にかなり心を許しているのだな、と満足感を覚えた。そして彼女の安心を得ることで彼女というものをジワジワと自分のものにしていっている感覚があった。段々、自分と同一のものにして征服しようと僕は考えているのかもしれない。それは自分では悪いところと自覚していたけれど、改善するほど悪いものと思わなかったし、改善できるとも思えなかった。だが、それを違う面として見るなら、僕は彼女を人生の中で特に大事にしているのと同義だった。僕はそれまでに今までの恋人やその他の種類の関係の人々に征服するなどという、特殊で強烈な感情を抱いたことがなかった。僕は彼女を特別としていたし、今までの恋とも違うと思っていた。それは彼女の美貌から生じさせられるものではないと断言できる。彼女そのものが僕の人生の空白を埋め続ける断片であり、彼女と共有する時間が僕の心の揺りかごのようなものだった。


 気取った小さめのフォークで、ココアパウダーがまぶされたチョコレートケーキを小さく上品に切り、口に運ぶ、僕はたったそれだけの所作でさえ彼女と共に居ることで特殊な意義をこの時間は含んでいると思う。


 だが僕はその特殊な意義を頭の中で言葉にするとともに、彼女の表情を見ていて、黒く固まって冷えきった暗い部分が見え、気味が悪く思えるときもあった。それは異常な性質を持っているように感じ、僕には測り知れないほど固く鋭く尖っている表情のときもないではなかった。それの正体がなんなのかも、僕には分からないしおそらく彼女自身も理解しきれていないだろう。


 僕は彼女に狂熱的な恋慕をしている反面、彼女の暗い感情を抱いたときの表情というのを冷静に見ていたし、彼女の気持ちの沈みは深く悲しく、冷徹な僕でさえも彼女に同情してしまうのだった。だがそれを後で冷静に考えると不気味さは刻々と増していき、僕は恐怖すべき対象に恋しているのではないかと自身と彼女を不審に思ってしまったりもするのだ。そしていつしか、きっと僕が一番おかしいのだろう、という結果に至っていくのだ。そう思わせてしまう魔力を彼女は持っている。男を狂わせる彼女の素質を僕なら扱えるとか、制御できるとか、そういったことは考えてみたりするけれど不可能と知っている。僕は塔子を支配したい欲望にどっぷりと浸かってしまっているようだ。もう小学二年生だった京子に恋していた僕には戻れない。京子だったら麻薬のような魔性を持った塔子の存在をどう思うだろうか。姉だからといって守ろうとするだろうか。リストカットを止めさせようとはするだろうが。


 僕はちょっと笑いながら、塔子ってたまに凄く暗い顔をするよね、と言った。彼女はそうかしら、と答え、特に気にした様子もなく、今度はポットに入った砂糖をスプーンでコーヒーに入れた。


「暗い顔をしてるよ。あの暗いときの顔を見ると本当に怖くなるよ」

「怖いって、そんな風な顔しているの? 私」


 僕は真面目な顔をして頷いた。僕はこれを機に話をリストカットの話に移した。真剣に話をすると、彼女の笑顔が少しずつ消え失せていき、僕を鋭い目で睨んだ。


「リストカットをすることがそんなに悪いことと思ってないからね。それに、死ぬわけじゃないし。私の体だから私の好きなようにしていいでしょ。イレズミだっていれる人もいるじゃない。それと大して変わらないわよ」


 僕は彼女の声の調子が理性的ではないことにかなり驚いていた。彼女はいつも冷淡で僕に荒げた声を使うことは全くなかった。僕は何も言わなくなり、彼女はごめん、言い過ぎた、と少し反省したらしい沈んだ声で謝った。


 その場は少し暗い雰囲気のものになったが、僕のおしゃべりが始まると彼女はまた明るくなり、声を出して笑い合った。僕は彼女の病んだ部分を垣間覗きこみ、言葉が出ない苦しさを覚えて、彼女と一緒に居ることに不安を感じた。


 かといって僕はそれから冬までの四週間、目立って彼女の心境を変化させようとするアクションを起こさなかったし、たまにチラチラとのぞかせる、彼女のどの種類とも断じられない負の感情を見ることも少なかった。僕は冬までにデートを三回し、喫茶店のときのようなことが二度と起きないように願いつつ彼女と遊んだ。そしてそれが実際に起きなかったので、僕は安心して付き合えると感じるようになった。喜ばしいことに彼女のリストカットの頻度も減っているようだった。僕は病院に通わせる必要もなくなったのではないか、と心の底からの安堵のため息を吐きつつ彼女と連絡を取り合った。


 冬までの間、僕は駅前の掃除夫のおじさんといつか酒を飲みに行く約束を取り付けた。それは十二月の初旬だった。雪に電車がつかまらないといいなと思いながら僕は楽しみに彼の名を聞けるかもしれない日を待った。


 それは十二月の二日で、京子が死んだのは四日だったのを、僕はぼんやりと塔子の話から思い出した。

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