第8話

 兄は言ってからしばらくコーヒーをひどく不味いもののように飲み、僕の方に目線を遣らず、ハロウィーンの特集に目をやっていた。僕はとても巧妙に出来た怪物のメイクをしている人を映像で見た。僕には人と人の間に産まれる得体の知れない何かが怪物に思えていた。足腰が立たなくなるくらい、身の毛もよだつもののように思えた。


 兄は何かを考えている風に僕に言った。


「病院に通わせるとかは考えなかったか?」


 僕は無言でいた。

「そういう人が通う所もあるんだろう?」


 僕は兄からそういう話を聞かされて何も答えず真剣な顔で小さく頷いたりしていた。兄は随分と細かく自傷する人の考え方の癖などについて調べたらしく、僕は丁寧に教える彼の顔を何も考えずじっと眺めていた。その間はほとんど何も考えていない灰色の時間だった。内容も部分的にしか頭に入らなかった。けれど、話が終わって最終的に僕が思ったことは、病院に行く必要などないし、彼女は精神が異常な人ではないし、そういう人が治療するところに通う必要もない、馬鹿げている、という考えだった。それがあまりにも甘い見通しであることは冷静になれば分かった。だが精神病であることを信じてみようとすると自分はひどい目に遭わされたような気になることは分かっていた。異常である人物と関わったという事実にしたくはなかったし、彼女は異常ではないと思いたかった。



 異常な人間でも普通に見えるし普通に接することはできるとうろ覚えの兄の話で理解はしていた。


「異常な人間というのは、部分的な話だ。例えば変わった癖がある、とか、そういう種類のものなんだ」



 兄はそう言っていた。彼はある意味教師だった。彼はやはりいつも正しいことを言うのだな、と僕は改めて理解し、実感した。そしてその正しさが彼女を異常な人間であると教えていると思うと、兄に対しても塔子に対しても、非常に辛い、怒りや悲しみとかの負の種類の感情を新しく根付かされたのだ、と僕には感じられた。そしてそれが大切な人を思いやることの行為や考えの一つなのだと仄めかされた気がした。僕にはそれが傷の一つとして刻まれて分からされたように感じた。


「彼女が大事なんだろ? 連れて行ってやればいいじゃないか」


 僕は彼が僕以上に冷酷な人間なのではないかと考えられるのではないかと思えた。あの可愛い塔子を閉鎖的で退屈な牢獄のような所に通わせるなんて、考えることすら許されないんじゃないか、と僕は思った。だが僕は冷静じゃなくなっている自分に気がついた。僕自身が狂信的に彼女を正しいものとしようとしていると僕は客観的に思った。僕は今異常だった。何をそこまで熱心に考えているんだろうと笑えてしまった。


 そうだ。自傷行為なんてしてはいけないことだ、と僕は考え直したが、彼女に病院へ行くよう伝えるのは厄介なアイデアだと思った。


 彼女を思うことは辛いと感じたし、彼女を自分だけで変えられないことに涙さえ出てきそうだったが、僕は頃合いを見て彼女へ病院の話をすると決めた。





 十一月の初旬、表では白い雪虫が降るように飛んでいた。僕は長い間それがどういったものなのか知らなかった。冬の前に飛んで来る羽虫らしく、空中を占領するようにたくさん浮遊し、そのうちほぼ一斉に死んで消えてしまう。それだから雪虫という名なのかもしれないなと考えた。


 僕が考えていたことは塔子のリストカットのことだったが、それについて五日ほど考え悩み、なかなか口に出せないでいた。いきなり病院へ行こうなどと口に出せなかった。リストカットについては彼女は僕自身が知っていることと分かっていたわけだから、なぜ今まで黙っていたのか、という疑問や不満に繋がるかもしれなかった。

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