第7話

 十月の終わり頃、世間ではハロウィーンの流行で首都部で大騒ぎをしている映像がテレビに映っていた。僕と兄の昌平はコーヒーをすすりながら黙ってそれを見ていた。兄は疲れや感情をあまり表に出さない男だった。だからといって非社交的ではなく、自分自身の世界観や夢を持ち、それを話すときは誰にでも活き活きと会話をしだす男だった。家では淡白な会話をする兄弟だと自分では思う。彼は宇宙の衛星だかのアームを作りたいだとか言っていて、そういう専門の遠い大学へわざわざ通っていた。僕はその夢の熱さもよく知っていたし、兄がその夢の為ならば兄の大事な存在や習慣を幾つか捧げて失えることも知っていた。


 そういう兄が近所から変人だとみられていても、僕は誇れるものだと感じていたし、恥じることなど何一つないと思っていた。兄はこの村で産まれて生活するには大きすぎる人間で、窮屈さを感じていることも知っていた。僕は兄を淡白な会話をしていて特に笑えることを言わない人間でも大事だったし尊敬していた。


 その兄がふいに僕へいつもと違った調子の声をかけてきた。


「塔子さんは元気か?」


 その言葉には少しばかり心配の調子が含まれており、僕は訝しげな気持ちにならざるを得なかった。


「元気だよ。それがどうかした?」

「元気ならいいんだ」


 兄は元のこれといって特に強い感情のない薄い笑顔になり、コーヒーカップをテーブルに置いてトイレに行った。


 そういえば、と、僕は彼も一緒に少年時代を過ごした仲間であった事を思い出し、それでもあまり友人的な気持ちで兄を意識したことはないな、と思った。


 兄の少年時代は今と比べてあまりにも乱暴者の印象が強く、それでも僕らには暴力を振るったりはしなかった。どちらかというと気に入らない目上の者に攻撃的な態度をとり、年下の子供らは無視されていたという感じだった。どちらかというと兄は尊敬されているタイプの人種だった。ダークヒーローのような人を押し黙らせるような種類の強い威圧感があった。兄はそれを快感とも思わなかったらしいし、自身の強烈さや暴れっぷりを恥と考えている場合もあったくらいだった。例えば友人のA君がどのような方面から考えても悪いことをしているのに、誤ってB君を殴ってしまった、などという場合だ。彼はただの暴力を恥じて責めていた。彼は力を正義や公平さなどの事柄を正しい方向にもっていくための道具だと考えていた。



 兄はしばらくして戻ってきて、気難しそうな顔をして立ち、ソファに座っている僕を見詰めていた。僕はその気難しさから兄がとても悪い話をしそうな気がし、黙って見やった。兄は僕の隣に座り、テーブルのコーヒーカップを手に取った。


「塔子さんが自傷行為をしているのを知っているか」


 彼は言った。僕は知っていた。知っていたがどうにもできなかった。体の周りをセメントで塗り固められたみたいに身動きできないように何もせずにいた。僕はただ彼女のリストカットの跡を見て、心が冷たく痛んだのを感じた。僕はやはり何もできないでいる。自分の世界を変えられないでいる。暴力を振るってでも止めればよいのか、と考えてもみた。もちろん過度な考えだったが少年時代の僕ならやりそうだった。けど、今の僕の拳は女性の体や心だけでなく、人生すら傷つけて引き裂くのにも十分な力がある。僕が少年で、彼女がプロレスラー並みに強いのなら思い切り殴るかもしれない。


 兄は怒っていた。彼が塔子の少女時代をどのように記憶していたかは分からないけども、やはり兄は正義漢のまま変わらず、塔子の恋人であるならどうにかしなくてはいけない問題を持つ僕を、鋭く、口元をきつく結び、僕の人生に印象的に残るくらい強くにらんでいた。少しばかりの間、彼は何も言わなかったが、


「やめさせてやれ」


 と彼は言った。

 僕はそれになんとも答えなかった。もし僕が相槌を打つようなことを言ったとしたら、その答えは実行にうつせそうにもなかった。彼女は、それをしてきた人の多くがそう語るように、生きている実感として自傷行為をしていると言っていた。血を見て自分の生きている事が明確になる、彼女がそう語ったとき、僕は言葉を失ってまるでマヌケなカカシのように突っ立っていた。僕はどう答えたらいいか、その答えの通路を探しても見つけることができなかった。僕は控えめにでもやめてほしいと言えばよかったのだ。それで少しは気持ちが楽になれたかもしれないのだ。僕は彼女の邪魔をしたくないから何も言わなかったのではなく、彼女に嫌われたくなかったから何も言わなかった。それを思い返せば兄の命じた言葉は重さと厳しさをもった。僕はこれから兄の命令した言葉に注意して彼女と接することになるだろう。そして自傷行為をするたびに兄の命令はチクチクと僕の良心を刺激するだろう。はっきり言って僕は彼女が自傷行為をすることをそれほど重いことと考えていなかったりしたときもあった。強くやめてほしいと願ったときもあれば、もしかしたら人によってはよくある事なのかもしれないと考えたときもある。それで彼女へやめてほしいと懇願するかしないか、どっちつかずで終わっていた。僕は彼女が何を言えば喜ぶかは知っていたが、どういう思いで願えば彼女が生を実感するリストカットを辞めるかは知らないし、これからもやめさせる方法を見つける自信はなかった。ただ僕ができそうなことは彼女を見て心を傷めつつ共に笑って喜びを感じるだけだった。

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