第6話

 十月半ばになって冷たい雨が降り、この地帯では珍しく、霧になって村を覆っていた。僕は近所の塔子の家に寄ってから図書館で静かにデートをしようと約束していたのだが、僕は断りの連絡を入れて一人サイクリングにでかけた。雨の日だったがそれでも構わなかった。雨はどうやらそれほど激しくなかったようだし、そのうち収まりそうな様子だった。僕は山の方に向かっていった。いつも電車の中から見え、綺麗な薄緑色をしているな、と思って眺めた山だった。僕はいつだかにそこへ向かってできるだけ自転車を走らせる、という特別な目的や理由もない、ただやってみたいことをやるつもりだった。そしてそれは雨の日が最適だった。雨の日である理由は電車から雨でその山を見ると、神秘的で高尚に思えるという、自分でも妙だなと感じる理由からだった。



 僕は地元の細く狭い道から四十分ぐらいかけて広いバイパス沿いの道に出て、またそこからくねくねと曲がった緑豊かな田舎道へと出た。僕はわけもなく速く速くと自転車を急いでこいでいた。それは全く自分で意識していないことだった。僕は何かから逃げでもするように走っていた。呼吸を荒くして頭の中を空っぽにしたかったのかもしれなかったが、僕の頭は鋭く働き続け、京子の像がふいに思い出された。


 僕はまたある結論に至ったのだ。 


 塔子と恋愛する云々の問題ではなく、京子が失われ、僕の少年時代に大きく深い傷があり、それに重要な問題があったということだ。あの十二月の大掃除の時に、封印がはがれ、傷跡が強く意識しだされて、それを治そう治そうと僕は考え始めたのだ。死と恋というテーマについて、はっきりとした京子の死のイメージで思い出し、そして恋する年頃であるということでまたぶり返しだしたのだ。僕の中で死と恋は部分的に結合し、隣り合ったものになってしまっているのかもしれない。少年時代の鮮烈なイメージが衝撃として蘇っているのかもしれない。それが僕を、ひどい人間不信の淵に落とし、命の尊さなどの概念を不明確にしている。僕は京子が死んでから確かに冷徹になった。何もかもを客観視しようと考えて努力した。彼女の死すらも。それに情熱的な恋についても。人生について大事で熱中すべきことも客観視しようと必死に努力した。それが結果として爆発的な何かと、熱中できずに周りに嫉妬するという、敗北感を生み出している。だから僕はいつまでも満たされず、また吐き出したいものを表現せず、物事に没頭も出来ない。ただずる賢いだけの人間になってしまっているのではないかと思う。僕は生きていく上で確かに賢い方法を取っているかもしれない。だが、そういった考えで生きるにはまだ早すぎるし、未熟なまま塔子に僕を大人の男として選んでもらおうとしている。



 もちろん彼女は今の僕と話すのが楽しいだろうし、一緒に居れて嬉しいだろう。彼女は僕と話をするときにいつも純粋無垢な笑顔になるし、それは痛みを持っていったものから傷が癒えたようなものへと変化していった。彼女が離婚や妹の死を経験したことでひどい傷をもったかは僕には定かではない。でも、僕は彼女の変化が嬉しかったのだ。彼女の顔がだんだん明るいものになっていくことが、喜びだったのだ。


だからこそ僕は迷い続けているのだろう。彼女との関係のためにこの不自然な客観視を続けるのか。人と接することに勇気を持ち、本心を晒しながら生き、もっと成長してみようとするか。僕は気づかなかっただけでそれについてずっと迷っていたのだ。


 雨は降り止むと僕は思っていたが、針のように鋭くなり、激しさを増していっていた。止む様子を見せずに十五分ほど降り、僕はその間も山に向かって走り続けた。途中で雲が割れて大きな隙間ができて光が降り注いだ。僕はそれを眺めに脚を止めた。空から見れば僕は光を浴びて休憩している人間で、これといった問題を抱えているようには見えないだろう。でも世界の人間全員がなにかしらの問題を抱え、不信のうちに陥ったり、恋愛に悩んだり、仕事で疲れたりしているんだろう。そう思った時、僕は世界中の人間の誰一人とも変わりがないことに気がついた。

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