第5話

 墓参りから五ヶ月経って、街路樹の枯れ葉を掃除する人を見かける秋の朝、僕は駅から出て顔見知りで友人の掃除屋さんにひと声かけ、ともに円形のベンチに座った。僕らは互いに名前を知らなかったが、高校からの付き合いだから僕らは互いに友人として親密な温かみを感じていた。彼は背が低く、腰がやや曲がり、目が細くいつも微笑んでいるような顔つきをしていた。そして顔の色は日に焼けたせいで赤みをもっていた。


「掃除屋さん。昨日は負けましたね」


 僕らはプロ野球の試合の勝敗とその内容について語り合い、応援しているチームにいくらか遠慮のない罵倒の言葉を使った。


「ところで、彼女とはうまくいってるのかい」


 彼女というのは塔子のことで、彼女はおばさんの家に定住し、ここいらの都市で仕事をすることになった。彼女は、良次くんに恋したのは私だから、私のわがままで仕事場を変えた、と笑っていた。僕は彼女からの恋の告白に何も答えず、ただデートに応じて楽しく話すだけだった。彼女はそれだけでも満足しているらしかった。仕事の規模を縮小することにはなって僕は済まなく感じていたが、彼女は気にしないよう念を押してきた。


「はい。でも、相変わらず僕は彼女と肉体関係になりたくないんです。彼女も反対はしないんですが」


「ニイチャン。その年でそういう事をしないってのはおかしくないか? 本当にしたくないのか?」


 僕は頷いた。僕だってそういう行為が嫌いなわけではない。一人の男として少ないけれど経験もしている。だが、僕は彼女と僕とがまじりあうことで、思いやるという僕の恋愛の本質からずれていき、違う関係の性質のものになっていきそうでそれが怖かった。僕は恋愛に対してもっと精神的な性質を求めているからでもあるのだ。そういう行為がきたない行為だと思っているわけではない。


「ニイチャン。恋愛対象にそういう事をしたいと思わないの? 本当に?」


「したくないわけではありません。そういうことじゃなく、してしまったらもっと大切な何かをいずれ壊してしまうのではないかと思えてしまうんです。しかもこれがとても特殊な問題なのは、今までも僕は違う人とそういう経験をしてきたんですが、それが今の彼女にだけ感じるということなんです。そしてその明確な理由が僕にも分からないし、彼女が僕に出来なくさせて済まないと、僕が思わせてることなんです」


 彼は土ぼこりが付いた青い帽子を取り、白髪頭を掻いた。彼の視線は正面にある高いビルの化粧品の広告に注がれていたが、僕の悩みを解決することに真剣に取り組んでいるようだった。僕は病気で色素が薄くなった彼の灰色の瞳を綺麗な惑星みたいだな、と思った。彼が解決しようとていることは僕のことであってそれを彼と共有し、そして僕らは毎日といっていいほど会っている友人なのに、住んでいるところも、電話番号も、名前も、彼の他の友人も知らないのはなぜだろう、と少しばかり不思議だった。


 長い間彼を友人だと信じている僕は平凡な大学生で、彼は自分の人生でこれといった勝利も得ず、敗北ばかりしてきた過去があるから後ろめたいのだろうか。だからこれ以上親密になろうとしないのだろうか。


 でも僕は過去にとらわれてそれ以上の仕事の立場へ進まないようにしたり、温かい友情を深めないようにしたりする彼に辛辣な言葉を浴びせることは出来なかった。彼が他の一般的な人より辛い目に遭ってきたことは体に表れている病気や今までしてきた世間話から考えて明らかだったし、定年を超えても不健康そうに歩いたりする様子で、体の調子がますます悪くなっていたことも知っていた。でも僕にはそれらの仕方ない要点をまとめて考えてみても、生きていく上で僕とこれ以上仲良くならない選択をするのは仕方ないものではないように思えた。彼が僕との距離を狭めることを遠慮しているわけではないようだ。


 そしていつしか僕はある結論に至った。彼はある役目になりたいのだ。ある一人の若者をできるだけ正しい方向へと導く、そういう教師といっていいくらいの役割を果たしてみたいのだ。彼が恋人を亡くし、仕事を失い、体を悪くし、敗北者として冷たく扱われても、そういう役割を果たすことで自分の失敗や喪失を埋められるだけで彼は満足なのだった。だから僕もいつしか彼の友人と生徒の両方をしようと努めていた。


「それでお前は淋しさを感じたりしないか?」


 僕はその質問について少し頭の中で取り組んでみた。淋しいという性質のものとは少し違ったように感じた。僕は塔子に熱情を感じるとき、もっとやり場のない爆発的な激しさを感じるようになっていた。かといってそれは決して表に出るものではなかった。そしてそれは欲情でもなかった。でも感情的であることは確かで、淋しさとか悲しさとか嬉しさとかの類ではないように思えた。


 それは例えば友人や家族や先生に良いことをして褒められたり、勉強や仕事の成果が優れていて自分に満足したり、悲しい気持ちに打ちひしがれたりしたとしても、決して得られない特別なものだった。それが嬉しいものとも邪魔なものとも判じられず、僕がその存在を明らかにしようと思っても磁石の反発のように遠ざかっていくのが分かった。それはいつか爆発しようとざわざわと騒ぎ、ひんやりと冷たく、かつ沸騰しようとする矛盾した性質(僕にはそのように感じられる)だった。いつも僕の腹の中でグルグル回って泳ぎ続けている。


「僕にはよく分かりません。ただ情熱はあります。彼女のことが好きです。恐らく愛しているでしょう」


 僕はそう答えた。愛しているという言葉はたまに放り投げたように無責任な言葉だと思っているので、恐らく、とつけた。彼は灰色の瞳で僕の顔を睨みつけてすぐ顔を化粧品の広告に向けて、車のいる車道へと目を落とした。


「男に興味があるわけじゃないよな」


 彼は確認するように言った。


「もちろん違います」


 彼は深く息を吐いた。


「お前はきっと優しいんだよ。そして正しいことを求めようとしすぎるんだよ。お前は彼女を傷つけたくないし、そしてその行為で自分も傷つきたくないんだよ。要するに関係自体をおもいやり過ぎなんだと思うぞ」


「そうなんですかね」


 僕はタバコを取り出し、口にくわえてライターで火をつけた。

「タバコなんか吸うようになったのか」


 僕は首を振ってすぐに咳き込んで煙を吐き出した。今日吸うのが初めてだったタバコの味は、この世の物とは思えないほど不味いもので、とても人間が口にできるものではないと感じた。おじさんはそれを見て笑い、僕はくっそ不味いと呟いた。


「お前もタバコを吸える年になったんだな。ということは酒も飲める年齢だな」


 おじさんはしんみりしたように言った。僕が高校に通い始めてから見かけるようになり挨拶をし、それから声をかける習慣がいつしか仲が良い象徴に思われて僕らは友人となった。それから四年経ったのだ。僕らは名前も知らないという状態からは進歩しないが、友人としての仲の良さは深くなったと思っている。それこそ家族にすら教えていない年上でバツイチの想い人の存在すら教えるほどに。


「いつ二十歳になったんだ」


「先月末ですね」


 僕はもしかしたら酒を飲みに連れて行ってもらえると思ったが、そんなことはなかった。僕はいつものように感じている孤独を今日も一日噛みしめるだけだった。僕は友人が出来ても恋人が出来ても孤独が解消されることはないと推測している。僕はいつだって淋しい思いをしている。それが飲みやカラオケなどの誘いで先輩らに連れて行ってもらったりする活動で消えてしまうことはなかった。一時的に孤独が麻痺して家に帰って酔いがさめつつある瞬間僕は気づいてしまうのだ。自分という存在が何者でもないような感覚だとか、胸の中に空白が大きく出来上がってしまっているとか、そういった空しさというものに僕は圧し潰されそうになる。


 僕は塔子に恋して、ますますそれを感じるようになった。彼女が素晴らしい存在に見えて僕の爆発しそうに泳ぎ続ける感情はますます腹の中で高まり続け、そして自分のちっぽけさだとか弱々しさだとかがあまりにも残酷に感じられてしまう。大人になった、そういう年齢でもある。僕は酒が飲めれば何かが変わるかもしれないと思ってもいた。タバコを吸えば変わるかもしれないとも思った。でも実質は何一つ変化せず、爆発しそうな何かがグルグルと暴れ続けるだけなのだ。それを勉強や仕事への情熱にしようとしても何にも変わらなかった。僕はこうしていつも一日一日に出会う人々に恐怖だとか憧れだとか格好良さだとかの種類のそれぞれの強みに怖気づき、それを見ていて敗北感というものを覚える。負けていることに対して何も出来ずに自分への叱責だとかをしてみても、僕の本質や核になっているものは少しも体を動かさず、冷徹な無表情を続けている。僕はいつか変わるのだろうかと将来に対する希望を捨ててしまいそうになりそうだった。負けて折れてしまいそうだった。恋人が出来ても友人が多くても何か僕の本質というものが僕の将来や現在のリアルを、どうにかしてくれるものでもない。僕は何か凄いものでも出来るのかといったらできないし、情熱を傾けるものもない。ただ冷たさだけがある。常に冷静になっている自分を恥ずかしいとすら思わず、それで毎日ニコニコ笑っている。敗北の笑顔をしていると僕自身は思っている。それでも爆発しそうな何かは表には出てこないのだ。

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