バッティング勝負
短い休憩を終えて、ノック練習に入る。三年生が引退したから、僕たち一年生も新チームの一員として、本格的な練習に参加するようになった。それまではグラウンドの奥のほうで基礎トレーニングをしたり、コーチの打つ単調なノックを受けたりしていたけど、夏休みから二年生と一緒に活動している。
地面に降りそそぐ鋭い日差しが、グラウンドにもわもわとした熱気をもたらす。
僕は一塁と二塁の間のセカンドにいる。セカンドというのは忙しい守備位置で、ショートにボールが打たれたら二塁へ走らないといけないし、ファーストにバンドが打たれたら一塁へ走らないといけないなど、複雑な役割を負っている。しかも守備範囲が広くて、ライトの方向に鋭い打球が飛んできたときは、それを取りに行かないといけない。精一杯腕を伸ばしても、あと少し届かないなんてこともよくある。
あらゆるポジションから怒声のような掛け声が飛び交って、先生は次々とボールを打っていく。サードへ弾丸ほど速い打球が放たれ、次にショートへ走らないと取れないようなきわどい球が送られる。今度はセカンドだ。まず先輩がノックを受ける。二塁へ勢いよく放たれたゴロを難なく捌き、流れるように一塁へ送球する姿がかっこいい。
僕の番だ。
腰を低くして構える。ばっちこーいと叫ぶと同時に、先生がボールを打った。先輩とおなじ二塁の強烈なゴロが地面を駆ける。僕は斜め後ろへ走り、内野を抜けそうなボールへうんと思いっきり手を伸ばす。うるさかったはずの掛け声が鳴りを潜め、地面に向かって伸ばした手に顔に、そして身体に空気の重たさがずしんとのしかかる。
今回もだめか、そう思った。だけど抜けたと思った束の間、左手にはめたグローブにすぽんと球がおさまった。
やった。とれたぞ。
グローブのなかのボールを右手に持ち替える。縫い目にひっかけた指で、ごつごつとした感触を確かめながら、しっかりと足を地面に踏みしめ一塁へ送球した。
今まで取れなかった打球が今日は取れた。嬉しくなってステップするようにもとの位置へ戻ったら、先輩が振り返って
「おぉー、よくとれたなあ」
とひとこと呟いた。そしてすぐ正面へ向き直り、また吠えるように掛け声を上げた。無秩序に入り混じる喚声のなかでも、先輩のセリフが確かなものとして僕の耳に残りつづけた。
四十分くらいかけてノックを終え、フリーバッティングにうつった。打者と投手の組が四つずつ横に並んで、二年生から順に打っていく。それ以外の人は適当な場所に立って、球拾いをする。二年生の打つ力強い打球が、何度もバウンドしながら僕たちのところへ届く。
フリーバッティングは一番楽しい練習だ。ゆるくボールを投げてもらい、力いっぱいバットを振れば、ボールがぎゅーんと遠くへ飛んでいく。それを想像すると、はやく自分の順番がこないかなと待ち遠しくなってきた。ただ転がってくるボールを捕球するだけじゃ物足りなくて、ジャンプしてみたりタタタッと小走りしてみたり、近くにいた山口に声をかけてキャッチボールしてみたりした。
「はやく僕も打ちたいな、ねえ山口」
「ちゃんとボール拾いやってないと、怒られちゃうよ」
「大丈夫だよ、ちょっとぐらい。それよりどこまで飛ばせるか勝負しようよ」
「バッティング?」
「そう」
僕は山口と勝負することにした。バッティングのとき、どちらのほうが打球を遠くまで飛ばせるか競うのだ。
順番がまわってきて、まず山口が他の一年生たちとともに打席についた。僕は山口の投手役を引き受けることにした。山口たちが打つ後ろで、コンクリートの階段のように段差になったところから、先生が全体の様子を見下ろしている。何度目かの球で山口が鋭いライナーを打った。ぎゅーんと新幹線みたいにまっすぐ、外野のほうまで伸びていった。
山口たちのバッティングが終わり、今度は僕が打つ番になった。張りきって、いつも以上にぎゅっと強くバットを握りしめる。代わりばんこに山口が投手の位置に着いた。
山口の投げるゆっくりとしたボールを、僕は見逃すまいとしっかり目で追いかけ、右足から踏み込んだ左足へと体重を移動させる。吸われるように寄ってきたボールにむかって身体をひねり、渾身の力を込めてスイングする。
ばこんっ!いった、いったぞ、と思った。
芯でとらえたボールは四十五度の方向に飛揚し、外野を越えそうな高さへ到達して長いこと滞空する。
このまま塀を越えるんじゃないか。
高く上がったボールはそこからぐいっと伸びて、塀までとはいかなかったけど、外野の奥のほうへ落ちていった。落下地点に控える二年生の先輩が造作なくキャッチした。会心の一撃は期待どおり、長打級の当たりとなった。
やった、勝てそうだ。この調子でどんどん飛ばすぞ。
そしたら背中のほうで、鋭い打球が飛んでいった。一緒にバッティングしている一年生がいい当たりを打ったのだ。僕は、負けないぞ、と目の前の球に集中する。鋭い打撃音が響き、勢いのある打球が抜けていく。どちらの飛距離が長いかははっきりしないけど、僕のほうが力いっぱいスイングしてる自信はあった。
もう一度と、意気込んで次々と送り込まれるボールに向かってスイングしていると、隣で打っている一年生の石川のほうから、ばちこん!と凄まじい音がした。びっくりして振り向いたら、すごい勢いでボールが飛んでいった。それは僕が有頂天になった打球よりもずっと速く、ロケットが空を進むように、一直線に飛んでいった。
後ろで眺めていた先生が強調するように言った。
「おー、スタメンに入れられるんじゃないかあ」
その言い様がわざとらしく僕たちに聞かせるようで、どうも虫が好かなかった。
あれを越えるものを打ってやろうと、僕は全力でバットを振りつづけるが、上手くミートに当たらない。左足の踏み込みも、体重の移動も、バットを水平に振りきる動作もぜんぶちゃんとやれてるはずなのに、ぼてぼてのしょぼいゴロしかでなくなった。だんだんいらだってきて、地面をがりっがりっとスパイクでほじくる。どうして、石川みたいに飛ばせないんだろう。そうだ、打ち方じゃない。投げるボールが悪いんだ。僕の打ち方は悪くないけど山口のボールが良くないんだ。
そう思ってから、ほんとうに送球がずさんだという気がしてきた。ストライクかどうか怪しいでたらめな配球、てんでんばらばらなスピード。こんなところ届かないよ、と叫びたくなる外角が来たかと思ったら、今度はわざと当てに来てるんじゃないかと疑いたくなるような内角が、身体すれすれに通ってゆく。
一度そう思ったら、もう考えを改めることはできなかった。
やっぱりそうだ、あいつの投球が悪いんだ。
練習が終わりトンボという用具でグラウンドを均しているときも、僕の気持ちはでこぼこしたままで、うまく心のなかを整理することはできなかった。
一列にならび、グラウンドに終わりの挨拶をする。部長のよくとおる声につづいて、全員で「ありがとうございました」と叫んだ。大きな声を出しても気持ちは晴れなかった。
同期の一年生たちと帰る。途中にあるバス停横の駐車場で、お喋りして時間をつぶすのが、ここ最近の僕たちの日課になっている。このなかには山口も石川もいた。
ひとりが思い出したように
「石川の打撃、先生も褒めてたなあ。すげえわ」
と言った。石川は嬉しそうな顔をした。
「塀にぶつかったって先輩が言ってた」
「ほんとにスタメン入るんじゃないの?」
「何番バッターやろ?」
ほかの人たちも先生のあのひとことが印象に残ったらしく、みんな石川をもてはやしはじめた。
僕は山口と勝負していたことが恥ずかしくなってきて、そして同時に、石川ばかりが褒められるのがずるいと思った。僕だっていいボールが来てたら、同じくらい飛ばせたはずなんだ。ただ、投げるほうが悪かっただけで——
「ねえ、山口。バッティングのとき、もっとちゃんと投げてよ」
我慢できなくなって、言ってしまった。山口は振り向き、きょとんとした。
「え?」
「だから、変な球ばっか投げてたじゃん。ちゃんと打ちやすい球投げてよね」
それを聞いた石川が
「他人のせいにするのはよくない」
と僕に注意してきた。石川に言われたのがカチンときて
「だってまともに球投げてくれないと練習にならないよ」
と口が勝手に動いた。それでも石川は毅然として主張を曲げない。
「いろんな球を打てるようになるのも練習じゃん」
「でも、山口は投げるの下手すぎるよ」
「それは自分のことを棚に上げてるって」
やり取りを聞いていたまわりの人たちが、この石川の言葉に触発されてか、急に責め立ててきた。
「山口は別に悪くないでしょ」
「そうだよ、自分がもっと上手くなればいいだけじゃん」
「他人のせいにするのはかっこわりー」
僕は言葉に詰まり、何か言おうとすると声が震えてしまうと直感でさとった。だけどなにか言い返さないと、このままじゃ負けてしまう——
「……そ、そうだけど、だって山口が……」
「だから、山口じゃなくて自分が悪いんだって」
最後に僕の言葉を封じるように、石川の放ったひとことが決定打となった。そのひとことで何も言えなくなった。
俺たちは当たり前の指摘をしただけだと、当然やるべき処置をしたにすぎないと、そんな余裕そうな顔つきで、まわりのみんなは満足そうに歩きだす。
これでこの喧嘩は僕の負けと決まったのだ。
僕はうつむいて手をぎゅっと握りしめ、瞳にあふれてきそうな涙をこらえる。
わかってる。わかってるんだ。石川の言うことが正しくて、僕が間違ってることぐらい。でもそういうことじゃないんだ。ずるいと思って言っちゃっただけなんだ。そんな自分が間違ってることぐらい誰よりも僕がわかってる。
隣に停めてある車に向き直り、みんなのほうを見ないようにした。
ケチをつけたくなって、山口に八つ当たりしてしまった。でもそれを正論で咎められて、みんなから責められて、そしたら引けるところを見失った。
そうして僕はよけいに悪い人になって、みんなはさらに正しい人たちになっていく。そんなのずるいじゃないか。そんなのフェアじゃない。
みんながバス停のほうへ向かうなか山口だけは立ち止まり、どうしていいのかわからなさそうに、あっちとこっちをきょろきょろ見返していた。僕は山口にどういう顔をむければいいかわからず、黙って反対側へ走った。そのまま逃げるようにして、いつもは通らない細い道を迂回して、家まで走った。
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