第39話★
いつものように自宅を出た。
ストーカーにもう悩むこともなく、頼れる後輩がいることに安心して出勤した。
空模様は生憎とどんよりとした曇天であったものの、心は逆に清々しささえあった。
それがたった一瞬にしてすべて無慈悲にも奪われた。
突然意識が刈り取られ、気が付けば見知らぬ場所で目を覚ました。
幸い拘束こそされてなかったにせよ、目の前――唯一の出入り口を塞ぐ男は、たった一度だけではあったものの鮮明に記憶している。
一颯と同じ
いずれにしても自分が
よくよく見やれば、他の三期生の姿もそこにあったから、ここで新たにかすみは驚愕した。
「――、い、今の話はどういうことなの? 一颯が……息子?」
確かに、男は一颯のことをそう呼んだ。
それは、少しおかしい。かすみは眉をしかめた。
一颯は歴とした女性で――胸は自分なんかよりも遥かに小さいけど。とにもかくにも、女性である一颯を呼称するなら息子ではなく、娘というのが正しい。
わざわざ息子と呼称したのは何故か。かすみは、同じく三期生の面々はどうしてもわからない。
「…………」
「……貴様、そうか言っていないのか。ならば代わりに教えてやろう。真実をしれば“ぶいちゅうばぁ”などという、くだらないものへのこだわりも消えよう」
「――、ッ」
次の瞬間、かすみはハッと息を呑んだ。
そう言えば、コイツが怒ったところって見たことないかも……? かすみは沈思した。
ストーカーや鬼と対峙した時でさえも、その表情は冷たく鋭い猛禽類をイメージする平然とした様子だった。
だからこそはっきりと目に見えてわかるぐらい、怒りの
周囲の空気もがらりと変わった。
もうとっくに冬は越してこれから真夏に移り変わろうとするのに。
雨のせい、だけじゃない……。再び寒波が襲来したかのごとく、骨の芯にまで浸透する凍てつく冷たさがずしりと鉛のように重く、どろりとまとわりついて離れない。
怖い……。生まれてはじめて、大切な後輩に対しかすみは恐怖を憶えた。
「――、侮辱されて激昂する、か。そんなにもいいものなのか? “ぶいちゅうばぁ”って言うのは――まぁいい」
男の視線がかすみ達を捉える。
「……そこにいる
「そして、散々出来損ないだの恥さらしと罵った挙句家督を妹に継がせ俺との絶縁宣言をした――こっちからあんな家、願い下げだったから好都合ではあったけどな」
「い、一颯……」
一颯は、あまり自分のことを語ろうとしない。
唯一まともな情報と言えば、
プライベートのことだし、ましてや辛い過去を気軽に話せるか否かは、人ぞれぞれだ。
中には一生秘匿としたい、とこう願う者だっている。
それがこのような形で、第三者からの口によって公開されようとは予想外である。
しかしながら、男の話にかすみはもちろん、他の面々もその
かわいい後輩が実は男だった……、今聞いてもやっぱり、とてもじゃないが信じられるものじゃない。
だけど、恐らく本当なんだろう。かすみは一颯を見やった。
否定することもなく、何かを語るわけでもない。終始無言のまま、目の前の男を――父親を静かに見据えている。
「……いつかこんな日がくるとは俺も最初から思っていた」
不意に、ぽつりと一颯が呟いた。
「俺も最初は言ったんだけどな、男だから無理だって。でもどうしても稼ぎが必要となった俺は、あの社長からのスカウトを受けた。男だってことを隠しながらの生活は、まぁ色々と面倒だったし、大変だったけど……でも、それなりに楽しかった」
「一颯……」
「だから、本当に今までお世話になりました先輩方。そして文句は俺じゃなくてあの社長言ってください」
そう言ってにこりと笑った一颯は――なんて、とても悲しそうな顔。それは周囲を騙してきたことへの罪の意識からか、ドリームライブプロダクションのVtuberを引退することへの名残惜しさか。
いずれもかすみ達が知る由もない。
たった一つだけ言えることは、もう二度と一颯とは会えなくなるということ。
それだけはここにいる誰しもが瞬時に到達した結論だった。
「――、どっちにせよ俺はもう家に戻るつもりは毛頭ない。俺を連れ戻そうとしていたらしいけど、残念だったなクソ親父」
「そういうわけにはいかないのだ。こちらも、是が非でも遂行しなければならない事情があるものでな……」
両者が構えたのは、ほぼ同時のタイミングだった。
片や至って
一方で相手は――あの大ぶりな構えは何? かすみは怪訝な眼差しを送った。
以蔵のとったその構えは、上段に部類される。上段とはもっとも攻撃的な構えであり、またの名を火の構えとも言う。
もっとも、以蔵のそれは原型からかなり遠い。
「大上段の構え……アンタの十八番だったな」
「忘れはおるまい。我が太刀筋から逃れられた者は一人としていないことを、な」
「あぁ、アンタの太刀筋は悔しいけど強烈だ。だけど……それにビビってた俺じゃあない」
一颯が不敵に笑った。
どうやら勝算があるらしい。かすみはごくりと生唾を飲んだ。
これから行われるのが何か――あの二人はもちろん、他の誰かに尋ねる必要もない。
殺し合いである。それは生きていく中でもっとも罪が重く、深海のように深い業だ。
ましてや彼らは一応とは言え、血の繋がった親子でもある。父と子が殺し合うなど、そのような世界かドラマでしか知らないかすみは、どうすればよいかまるでわからなかった。
頭ではさっきからずっと仲裁するべきだ、こう理解しているくせにして身体が全然言うことを聞かない。
「――、それじゃあ始めようか。クソ親父」
「……死ぬなよ?」
無情にも戦いの火蓋が切って落とされてしまった。
多分、勝負は一瞬で終わる。かすみは直感した。
一流の剣客同士の戦いを実際に目にした経験は一度もなく、大河ドラマにあるような激しい
かく言うかすみも例外にもれることはなく、これよりあの親子が激しく打ち合うであろうとイメージしていたが実際はイメージから遥か遠い。
なんとなくと曖昧な理由ながらも、かすみはそんな確信があった。
「――、参る」
以蔵が全力疾走で敵手目掛け肉薄した。
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