第33話★

 過去、これまでの人生の中でこんなにも驚いたことが一度でもあっただろうか……。そう思わざるを得ないほどの存在が、りんねの前にぬっと姿を姿を露わにした。


 なに、あれ……? りんねは目をぎょっと丸くした。


 わかりやすく例えるとしたら、恐らく猿が一番しっくりくる。


 ただし、自分が知っている本来の猿には程遠い。


 普通の猿だったなら、2メートルはある巨躯でもなければ、目もぎらぎらと怪しく不気味に赤く輝いたりはしない。


 なによりも頭には、あんなのまるで鬼みたいじゃない! 金色に輝く双角を生やした猿は、きっと世界中のどこを探しても存在しない。



「――、完全に荒魂あらたまに心身を蝕まれ真の鬼と化したか。それならば致し方あるまい」



 不審者は後生大事そうに、ずっと右肩に細長いレザーケースを所持していた。


 中身が露わになった時、かすみとエルトルージェが「あっ!」と、声を連ねた。


 日本刀なんて、生まれてはじめて見た……。りんねはごくり、と生唾を飲みこんだ。


 折れず、曲がらず、どんな刃物よりも大変よく斬れる、で毎度おなじみである日本刀は、刃物というカテゴリーならダントツの代物だ。その日本刀を手にした男が、巨大な猿の化け物と対峙する。


 猿の化け物が吼えた。そのけたたましい咆哮に思わず耳を塞いでしまうほど。



「――――」



 不審者は、あの怪物を見るのがはじめてじゃないらしくて、激しく狼狽しているのは自分達だけだと遅れて気付かされる。


 どうしてあの人は、あんなにも落ち着ついていられるんだろう。


 普通だったら、非現実的なことが起ったら誰でも驚いて戸惑うはずなのに、不審者はとても涼しそうに――むしろ、呆れさえも感じさせる目で怪物を見据えている。


 そして、勝負は本当に一瞬だった。


 電光石火、とここではこう言うのが多分何よりも適している。りんねは唖然とした。


 化け物が地を蹴った――そう認識した時には、どしゃりと化け物は地面に倒れていた。よくよく見ると、首が遠くの方に転がっている。



「…………」



 開いた口が塞がらない。それは他の面々も然り。


 目にも留まらぬ速さ、この表現はあまりにも速すぎて見定められない。こういう意味がある。


 さっきは視認すらできない速さだった。いったいいつ、どのタイミングで抜いたんだろう……。いつの間にか抜き身となった刀身が、月光をたっぷりと浴びて美しい白金色に輝く。



「――、さて。先程も言ったとおり、今日の出来事は誰にも喋らない方がいい。それがお互いのためでもあるから、な」



 今度こそ立ち去っていく不審者を、追いかけようなどという気が更々起こらない。


 あれは、深く関わっちゃ駄目な人種だ。


 化け物は――いつの間にか煙のように姿を消していた。


 首を両断されたのに、血の一滴さえも出ていない。本当に跡形もなく消滅していた。


 まるで最初から怪物なんてもの、存在していなかったかのように……。



「ど、どうする……?」

「ど、どうするって言われてもぉ……」

「そう、だよね……」



 自分達がどうこうしたところで、どうにもできる案件じゃない。


 そう言う意味で、“犬房いぬふさこころ”の反応は極めて正しくて一般人として普通の反応だ。


 しかしここで、りんねははたとある違和感に気付いた。


 傍から見ると確かに二人も驚いている。


 ただし、激しく取り乱すこともなければ静かに思案するような挙措と、至って落ち着いた様子だった。



「ね、ねぇ今の人……鬼って言ってたよね?」

「え、えぇ。間違いないわ。あれが……本物の鬼」

「ど、どうしようかすみちゃん! いぶきちゃんに連絡しておいた方がいいよね!?」

「アイツ……さすがにもう用事が終わってるでしょうから、大丈夫でしょ……鬼が出たってすぐに知らせないと!」

「ね、ねぇかすみんにエルルン。もしかして何か知ってるの?」



 無意識の内に、二人にそう尋ねていた。


 次の瞬間、二人がハッとした顔を浮かべる。なんともわかりやすすぎる反応だったから、ついついくすっと忍び笑いをしてしまった。



「え、えっと……私達は特に何も知らないよ!?」

「そ、そうそう! せっかくできた後輩が危ない目に遭わないように、事前に連絡しておこうって思っただけだから!」

「その割にはさ、二人とも随分と落ち着いてる感じだったよね? 普通ならもっと取り乱したりとかするじゃん?」

「あ、それは僕も思ったぁ。だってかすみんとエルちん、驚いてたけどなんだか見たことがあるみたいな雰囲気だったもん」

「あう……そ、それはその……」

「……お願い。何か知ってるんだったら話して」

「同じ三期生なのに秘密にするのはどうかと思いま~す」



 こころと一緒になって、りんねは二人に問い詰めた。



「――、俺がどうかしたんですか?」



 なんというタイミングの良さか。ひょっこりとやってきて、きょとんと小首をかわいらしくひねる一颯に、りんねは咳払いの後早速本題を切り出した。



「ねぇ、いぶきんってば何者なの?」

「いきなりどうしたんですか? 何者だって急に言われても……俺は俺としか言いようがないですよ」

「……さっき、そこで鬼に襲われた」

「……え?」

「大きな猿みたいな化け物に襲われたけど、知らない男の人に助けられたの。そしたら男の人がいぶきんの名前を出したから……」



 これは、もちろん真っ赤な嘘だ。


 彼女の個人情報を収集したいがために嘘を吐くという行為に、決して疚しさがないわけじゃない。


 とは言っても、この嘘が成功する確率は極めて低く、何よりも目撃した人間は後三人もいる。


 ことエルトルージェとかすみに至っては秘匿にしようとする側だ。


 大した反応レスポンスは、さしものりんねも望んではいなかったが……。



「……そうですか。つまり、鬼を見たうえに俺の名前も出た、と」

「い、一颯違うから! さっきのは半分嘘みたいなもので――」

「だけど鬼を見た上に、俺と同じ祓魔士ふつましを見た……というのは、本当なんだろ? さっきから辺りにどうも禍気まがつきが漂ってるとは思ってたけど……」



 溜息混じりに頭をがしがしと掻く一颯。



「や、やっぱり何か知ってるんだね……!?」

「…ちょ、ちょっと一颯……!」

「こうなってしまった以上は仕方ないだろ……。それに、だ――こころさん、りんねさん。今日見たことはすべて忘れて一切口外しないこと、約束できますか?」

「それは、無理かな……」

「僕もぉ」



 この世界で起きる不思議、それらすべてを否定するつもりは、りんねも毛頭ない。


 非科学的、非現実的な事象は確かに科学で解明されないからこそ恐怖も不安もある。


 お化け、なんかが一番わかりやすいだろう。魂という概念は未だ現代科学をもってしても解明できていない。


 人間は、自分の常識以上のことが起きることを極端に嫌う傾向がある。


 それは多分、平穏な日常が破壊されるのがなによりも怖いからだ。りんねはそう思った。


 だからこそ、世界はとっても面白いのだから。



「――、まぁお二人ならなんとなくそう言うとこっちも思ってましたよ」



 口では落胆しつつも、表情は極めて優しい。



「ちょっと、本当にいいの……?」

「だからと言って、このまま無理矢理納得させて大人しくするって思えないだろ……」

「あ、それはちょっとひどいよいぶきん。アタシ達そんなに口軽そうに見える?」

「……他言無用にしてくれます?」

「もちろん!」

「こう見えても僕は口が堅い方だよぉ?」

「…………」

「にゃんでぇ!? 僕疑われてるぅ!?」

「いえ、お気になさらずに」

「いや気にするってばぁ!」



 夜の静けさに、賑やかな笑い声が上がった。



「――、とりあえず。今日はもう遅いので皆さんは先に帰って休んでください。俺は少し辺りを見回りしてきます」

「いぶきちゃん大丈夫……?」

「ご心配なく。この生活は今に始まったわけじゃないからな」



 颯爽と駆け足で去っていく一颯を、りんね達は静かに見送った。


 彼女の姿が視界から消えたのとほぼ同時――



「それじゃあ、明日いぶきちゃんの家に朝七時に集合ね!」



 そう口にしたエルトルージェだが、何故か嬉しそうである。



「なんでアンタが仕切ってんのよ……」

「まぁまぁ、かすみん。でも、どうして朝の七時なの?」

「え~僕起きれる自身ないよぉ……」

「アンタもしかして、一颯の作るご飯が目当てなだけでしょ?」

「うん!」



 迷いのない、屈託の笑みと共に肯定するエルトルージェにかすみは呆れた様子だ。


 しかし、一颯の作る食事というのは実は前々から気になっていた。


 こんなタイミングで食べれるなんて……。明日がちょっと楽しみになってきた。


 りんねは一人、静かに頬を緩めた。

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