第22話
一颯は自宅であるマンションから少し離れた公園にいた。
当たり前であるが、世間一般はもうとっくに心地の良い眠りについているので、日中のような活気はない。
もっとも、これからすべきことを考慮すれば好都合なのだが。
明日も早い、できればさっさと終わらせて寝たいものだ……。一颯はもれそうになる欠伸をかみ殺して、何気なく夜空を見やった。
空にぽっかりと浮かぶ月は、今日も相変わらず冷たくて神々しい。
「――、こんなにも月がきれいな夜には不思議なことが起きる。なんてな」
どこかで耳にしたフレーズを口ずさんだところで、どうやらお出ましらしい。一颯は視線を前に戻した。
視線の先、距離はおよそ十数メートル前後。人工物の光の中にその男はひっそりと佇んでいた。
「……随分と早い出所だな」
一颯は皮肉を込めてその男に声を掛ける。
男からの返答は、なし。俯いたままで、だが口からもれる呼吸音は人よりかは獣のそれに近しい。
体躯についても、言及せねばなるまい。
かつてビール腹が特徴的だったはずが、今は異様なぐらい発達した筋肉に守られている。
もはや別人……などという言葉では到底言い表せないほどの変貌っぷりだが、一颯はさして取り乱すこともなく。冷静に、ただ鋭く男のことを見据えた。
やはりこの男、
赤い光沢のある、朱漆に染まった鞘からすらりと抜いたのは、一振りの太刀である。
刃長はおよそ
「……鬼である以上、こっちも一応仕事でもあるんでな。悪いがここで、お前を斬らせてもらう」
次の瞬間、ストーカー男……もとい、鬼が吼えた。
人の声帯から発せられているにも関わらず、獣のような咆哮が周囲にけたたましく響く。
近所迷惑にして睡眠妨害だ。さっさとケリをつける……! 一颯は太刀を構えた。
先に仕掛けたのは、ストーカー男の方だった。
どかどかと荒々しく地を蹴り、たちまち間合いを詰める様子は圧巻の一言に尽きる。
さながら大型のダンプカーが猛スピードで突っ込んでくるかのよう。
一般人ならたったこれだけも十分驚異的であるのに、ましてや怪物相手ともなれば意識を保つのさえも難しい。
気を失って絶命する方がまだマシか……。とは言え、自分に死ぬつもりなど更々ないが。一颯は一歩前へと出た。
丸太のように太く、筋肉に覆われた腕がさながらハンマーの如く空を穿つ。
ごうと大気が唸るほどの強烈な一撃は、けたたましい衝撃音と共に地面を大きく陥没させた。
深々と突き刺さる拳を中心に広がる無数の亀裂が、そこに秘めた破壊力の恐ろしさを物語る。
もし人間がそこにいれば確実に、今頃はミンチと化していたに違いあるまい。
もっとも、直撃すればの話ではあるが。一颯はストーカー男の背後にて、静かに納刀した。
それと同時にストーカー男の巨大がぐらりと崩れて――そのままなんの抵抗もなく地にどしゃりと伏した。
「ふぅ……」
一颯は溜息まじりにゆっくりと振り返った。
「まったく……自分の命を危険に晒すっていうのにタダ働きかぁ。本当に割に合わないなぁこの仕事」
愚痴が絶え間なくもれる。
とは言っても、少なくとも身近にある者を守ることができた。
特にかすみは、今回の脱走の一件でひどく怯えていたから尚のこと。
これで彼女も安心できるだろう。そう思うとこのタダ働きも悪い気はしない。
なにはともあれ、これで用件は済んだ。さっさと帰って寝ないと明日に差し支える……。一颯は欠伸を今度はかみ殺すことなく、大口でもらした。
「――、い、一颯……?」
「なっ……!」
一颯は驚愕に目を丸くした。
何故彼女がここに……? 後、どうしてエルトルージェも一緒にいるんだ!? 一颯は平常心を装った。
しかし内心では滝のような冷や汗がどっと流れていた。
彼女……“
だから脱獄と知った時の怖がり様は尋常ななく、夜遅くに出歩く心配はないという確信があった。
それが予想外なことに裏切られ、当の本人が目の前にいる。
補足すれば隣には同じく目を丸くしたエルトルージェの姿もあった。
2人とも、よっぽど慌てていたらしい。呼吸にはかすかな乱れが見られ、頬には一筋の汗が滲む。
「えっと……ですね。その……」
この事態は一颯にとって、もっとも恐れたシナリオであった。
特に彼女達……ドリームライブプロダクションのメンバーには何があっても知られてはいけない、と。
せっかく確保した資金面が水泡に帰す、確かにそれも理由の一つである。
だが真に一颯が恐れたのは、かすみ達のメンタルに悪影響を及ぼすことだった。
たった今、一颯は鬼憑きを斬った。人殺しではなく、あくまでも鬼である――とは、事情を知る者ならば理解こそできるが、そうでない者にすれば殺人以外のなにものでもない。
「あ、あのぉ……」
とりあえず、何か言わないと……! 一颯がそう思って口を切った、次の瞬間である。
「ア、アンタこれはいったいどういうことなの!?」
叫びに近しいかすみの声が、言葉を遮った。
「これはいったいどういうことなの!? どうしてあのストーカーが……っていうか、こいつ本当にそう……よね? で、でも前とは明らかになんだか違うしキモいし怖いし……。後どうしてアンタは日本刀なんか持ってるのよ! いったい何をしたっていうの!? まさか殺したの!? い、いくらストーカーで脱獄犯だからっていくらなんでもやりすぎよ!」
「はわわわわわわわわわ……!」
さながらマシンガンよろしく、質問という質問が絶え間なく浴びせられる。
エルトルージェに至っては、激しくおどおどと狼狽するばかり。
一颯は溜息混じりに頭を抱えた。
質問したい、その気持ちについては理解できる。だが聖徳太子じゃないのだから、せめて一つずつゆっくりとしてほしい。
最初の部分はともかく、後半の内容についてはもう何がなんだかわからなかった。
とりあえず、ここじゃあ近所迷惑になりかねない。一颯は困惑する二人を手で制した。どの道話すつもりではいたのだ。場所はここでなくとも問題ないだろう。
「と、とにかく落ち着いてください。まず誤解を解くようですけど、俺はその人を殺してなんかいませんよ」
「はぁっ!? で、でも実際に――」
「血は出てないですよね?」
この指摘にようやく、かすみもハッと気付いたらしい。
確かに男は斬った、が生命の源である血は一滴すら流れていない。
「俺が斬ったのは、このストーカー男に巣食っていた鬼の部分ですよ」
「お、鬼……?」
「とりあえず、まずはやるべきことをやりましょう。この人は気の毒ですけど、もう一度堀の中に入ってもらわないといけませんからね」
「え? えぇ!? ど、どうなってるの!?」
かすみはひどく困惑するのも、まぁ無理もないだろう。
以前の面影がまったくなかったストーカー男の肉体が、それこそかすみもよく知る姿へと戻ったのだから。
例えるなら膨らんだ風船から空気が抜けて萎んでいくかのよう。
顔にも生気が戻り、温厚そうな表情をしている。
これが恐らくこの男本来の姿であり、だから何も知らぬまま警察へ連行されることが少々気が重かった。
「彼にしてみれば、どうして自分が犯罪なんか犯したのか、刑務所に送られたのか、それさえも憶えてないでしょうけど……でもまぁ、少なからず疚しい念があったが故の結果だし。そこは仕方ないと諦めてもらいますか……」
「本当にいったい何が起きてるってのよ……」
「か、かすみちゃん大丈夫……?」
「大丈夫じゃないわよ……もう何がなんだか……頭が痛いわ」
「とりあえず、今警察に電話したのでお二人は先に戻っておいてください。後の処理はこっちでやっておきますので」
都内の警察官は、とても仕事が早い。
通報してから間もなくして、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
「今日はもう遅いです。明日詳しく教えますから、今日はお引き取りください」
「……わかったわよ。その代わり絶対に、ちゃんと説明してもらうわよ!」
「わかってますってば……」
「……行きましょうエル」
「あ、う、うん……。い、いぶきちゃん明日ね! 絶対に明日ね!」
「えぇ、エルさんもおやすみなさい」
そう口にしたものの、やはり好奇心やらなにやらが強くあるのだろう。
少し歩いては立ち止まり首だけを振り返らせる。
なかなか公園から出ない二人を追い払うように手で促し、ようやく一人きりになったところで一颯は夜空に向かって深く息を吐いた。
これは、マジで面倒なことになってしまった……。後悔先に立たず、とは正にこのこと。
とにもかくにも、何事も無事に転がることを今は願う他ない。一颯は切に願った。
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