第21話★

 空高くに金色の月がぽっかりと浮かぶ頃、かすみはふっと目を覚ました。


 ほんのわずかに開いた窓から吹くのは緩やかな夜風で、それが心地良い眠りから自分を現実世界へと連れ戻したのだと悟る。


 時刻は、ちょうど深夜0時。記憶にあるのは、午後11時すぎまでだから……。



「……一時間ぐらいしか寝れてないのね……」



 明日は特に予定もないし、久しぶりにゆっくりとできる。


 たまにはちょっと、遠出したりなんかするのもいいかもしれない――そんな楽しかったはずの予定が台無しになる事案が起きた。


 どうしてアイツが脱走したのよ……。かすみは大きな溜息を吐いた。


 一颯のおかげでせっかく戻った平穏がまた、脅威に晒されつつある。


 脱走……これは、本来だったらありえないことだ。


 捕まえた犯罪者を堀の外から出すなんてことは、失態以外のなんでもない。


 あんな怖い目にもう一度遭わないといけないの……? かすみは身体をぶるっと大きく打ち震わせた。



「どうやって脱走したっていうのよ……」



 テレビでももちろん、今回の事件が大々的に報じられた。


 犯人……これまで散々苦しめてきたストーカーは未だに捕まっていない。


 これに不安を抱かない方がどうかしているし、そこに助長するように不可解な事件の内容がかすみをより一層苦しめた。


 ストーカーの脱獄方法は至ってシンプルなものだった。


 穴を掘っての大脱走――映画なんかでもよくある手法で、だからこそ不可解極まりない。


 刑務所という場所を、かすみは深く知らない。これは当然だ。


 ごく普通に生きていれば、存在こそ知っていても全貌を把握する機会などまずありえないのだから。



「刑務所の防犯とか警備システムって、映画とかだと結構すごいんじゃないの……?」



 不安からもそりと独り言を呟いてしまう。


 逮捕からまだ一カ月と経過していないのに、果たしてこんなにも驚異的な速さで脱獄が可能なのだろうか……。かすみはすこぶる本気で思った。


 仮に道具があったとしても分厚い壁を一人で、それもたった数週間で掘ることなんて、本当に可能なのか。


 とにかく、こんなの非現実的すぎる……! かすみは深い溜息を吐いた。


 不意にこだましたチャイムの音にかすみは「ひっ!」と、短い悲鳴をあげた。



「こ、こんな時間にいったい誰だって言うのよ……」



 まさか、あのストーカーがきたの……? かすみの顔から血の気がさぁっ、と引いていく。


 時刻は深夜帯。常識人ならば絶対にしない行為だけあって、恐怖がどんどん胸の内で大きくなっていくのを感じずにはいられない。


 もちろん、ここで応対する気はかすみには毛頭ない。


 わざわざ自ら危険に踏み込むなど、愚かな人間がする行為だ。


 しかし、せめて誰なのか確認することぐらいだったらできる。



「――、一颯……!」



 すでに用意したスマホには、いつでも一颯に電話できるよう構えていた。


 普通だったら警察を呼ぶべきなんだろうけど、何故か一颯の方がずっと頼りに思えた。


 後輩で、他のメンバー……もとい、普通の人とはどこか違う雰囲気をかもし出す。


 一颯は、あまり自分のことを多く語ろうとしない。


 出会ってから日が浅いのは当然として、あの人懐っこくて誰とも簡単に打ち解けるエルトルージェにでさえも、一颯は心なしか壁を置いて接している。


 それでも、今まで出会った中で誰よりも頼れる人間は確かだった。



「だ、誰なのよいったい……」



 おそるおそる玄関へと向かう。


 そしてゆっくりと、息を殺しながらドアスコープを覗いて――かすみは深い溜息を吐いた。


 まさか身内に非常識人がいるだなんて思ってもいなかった。


 かすみは呆れつつ、真夜中の来訪者を室内へと招き入れる。



「……あのねぇ、こんな時間にくるとか何考えてるのよエル!」

「こんばんはーかすみちゃん!」

「こんばんはー、じゃないわよ! まったく何考えてるのよ……アンタこれ私じゃなかったらめちゃくちゃ怒られてるわよ?」



 口調ではそう言いつつも、かすみの顔が綻んでいた。


 今回だけは、この迷惑な来訪者を快く迎えた。今は一人っきりにはなりたくない。



「――、それで? こんな真夜中にどうしたのよいったい」

「うん。今日はかすみちゃんのお部屋にお泊りしようかなーって」

「え?」

「だって、かすみちゃん。大丈夫かなぁって」

「エル、あんた……」



 この子は食いしん坊で人懐っこくて、本当にワンコのようなくせにしてこういう気配りが誰よりもできる……。かすみはふっと、小さく微笑んだ。



「……ありがとうね。気を使ってくれて」

「いーのいーの! だってかすみちゃんは大切な仲間だもん! 困ってる時はお互い様だから」

「エル……」

「ところでなんだけどぉ……かすみちゃん、お腹空いてない?」

「え?」



 突然の申し出にかすみははて、と小首をひねった。


 お腹は、特に空いていない。それ以前の問題として、深夜帯に食事だなんて不摂生すぎる。


 それを尋ねてきたってことは……。かすみは怪訝な眼差しをエルトルージェに向けた。



「さっすがかすみちゃん、伊達に長い付き合いじゃないねー」

「はぁ……アンタさぁ、突然家に押し掛けた挙句食事を強請るとか普通する?」

「だってだってぇ、お腹空いちゃったし……それにご飯は一人よりも誰かと食べる方がおいしいんだもん」

「まったく……――言っとくけど、大したもの用意できないからね」

「大丈夫大丈夫!」



 満面の笑みでサムズアップするエルトルージェに、かすみは釣られて笑った。



「――、本当はいぶきちゃんも誘いたかったんだけどねぇ」

「いぶきも?」

「うん! だっていぶきちゃんの作ったナポリタン、本当においしかったんだよ!?」

「あー、あの動画ね。それだったら私も見たわ。意外に料理できるんだなぁって思ってたわ」



 正直なところを言うと……自分らしくもない。あろうことか一颯を妬んでしまった。


 料理はあまり得意な方じゃない、というのは他の誰でもない。かすみ自身がよく理解している。


 苦手なら苦手なりに色々と練習こそしてはいるものの、未だ納得いく一品が仕上がった試しはなし。


 かつての料理配信――後に、デスクッキングなんていう、大変不名誉なタイトルをリスナーから与えられてしまったけど……。その発端となった自分の手料理であるだけに、料理上手な一颯が羨ましかった。


 どこが普通なのよ……こっちからしたらなにからなにまで全部プロそのものじゃない! かすみは思い出し嫉妬に駆られた。


 しかし、いくら妬んでも一颯の腕前がプロ級なのは紛れもない事実だ。


 メシマズと揶揄される己に、彼女をどうこう言う資格なんて最初からない。かすみは心中にて深い溜息を吐いた。



「――、まぁまぁかすみちゃん。お料理は一緒にがんばっていこうよ。私も教えるから、ね?」

「いやぁ、そればっかりはさすがに悪いから遠慮しておこうかな~って……」

「まぁまぁ、そう言わずに」

「ほんっとうに大丈夫だから! うん、私自分一人の力でなんとかやりたいから! だから気持ちだけもらっておくわね!」

「ん~……まぁ、かすみちゃんがそう言うなら仕方ないっか~」



 そう言って台所の方へすたすたと去っていくエルトルージェの背中を前にして、かすみは一人静かに安堵の溜息をもらした。


 あの子は自分も壊滅的に料理センスが皆無という自覚がないから怖い……。彼女こそ、デスクッキングの王者として未だ君臨し続ける最強のメシマズだった。


 あの子が作る料理は、もう二度と食べたくない。


 キッチンに遅れて向かったかすみは、そこでエルトルージェの行動に疑問を抱く。


 他人の冷蔵庫を勝手に漁るなどと、もはや常識の欠片さえもない行動に出ているかと思いきや。


 何か食すわけでもなく、窓の外を見たまま動かない様子はどこか不気味さすらあった。



「――、エル? アンタ、窓なんか見てどうかしたの?」

「うん、かすみちゃん。あそこにいるのってさ、いぶきちゃんじゃない?」

「え? 一颯がいるの?」



 エルトルージェは、目がとてもいい。


 通常ならば絶対に肉眼で捉えられない距離や明るさでも、エルトルージェの目ははっきりとそれが誰なのか視認することを可能とする。


 実際、この疑惑……もとい異質な才能を検証する配信も過去に行い、見事成功させている。


 だからエルトルージェの言い分は決して間違いでも嘘でもない。


 本当だからこそ、こんな夜遅くに何をしに出歩くのかしら……? かすみは不思議に思った。

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