第18話
事務所の空気がなんだかいつになくどんよりとしている。
それは決して気のせいなんかじゃない、とそう一颯が悟ったのは“エルトルージェ・ヴォーダン”の存在が大きく関与していた。
元気いっぱいの黒狼系Vtuber――それを売りにしていたはずが、今はどうか。
表情もどんよりと暗く、深い溜息ばかりが絶えずもれている。
何かあった……なんて、見れば一目瞭然なので確かめるまでもない。
問題はエルトルージェにいったい何があったのか、だ。一颯はゆっくりと歩み寄った。
「おはようございますエルさん」
「あ、お、おっはよー一颯ちゃん! 今日は一緒に収録の日だね!」
「えぇ、今日は確か合同企画の奴ですよね。この辺りについては本当にド素人ですので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
「もぉ~固いってば一颯ちゃん。そんなにガチガチに考えてたら楽しめないよ!?」
「すいません、性分というか……まぁ、そんな感じでして」
今日する企画はエルトルージェと料理企画である。
料理……自炊をずっとしていたのだからそれなりに自信はある。
エルトルージェの方は、どうなのだろうか。一颯はちらりと横目にやった。
さっきまでの暗い雰囲気はもうどこにもなく、元気いっぱいに意気込んでいる。
とりあえず幾分かの元気は取り戻せたらしく、一颯もホッと安堵の息を小さくもらした。
もっとも、本調子と比較するとそれでもまだまだ程遠いが……。
「一颯ちゃんってお料理上手なんでしょ? かすみちゃんから聞いてるよ」
「上手って言っても、そんなプロみたいなものは一切作れませんよ? 誰にだってできる簡単なものばっかりです」
「あ~! それは言っちゃいけないことを言ったねぇ一颯ちゃん! 世の中にはその簡単なものすらもできない人がたっくさんいるんだから――私みたいに!」
「え? エルさんは料理は苦手なんですか?」
「まぁぶっちゃけるとねぇ。でもでも、去年からそれなりに作れるようになったんだよ! どう? すごいでしょ!」
あるはずのない狼耳と尻尾がそこにあるような錯覚を憶えた。
現実でも仮想でも、この娘は本当にどこか狼……もとい、ワンコっぽい。一颯はすこぶるそう思った。
ついつい頭をわしゃりと撫でてしまったのも、すべてこのワンコ属性が強い“エルトルージェ・ヴォーダン”が悪い。
「十分にすごいと思いますよ。苦手とわかっていて克服したんですから」
「い、一颯ちゃん……!? で、でも……なんだろ。なんだか撫でられるのすっごく落ち着くぅ」
「あ、す、すいません。先輩に対して失礼な真似を……」
「いいのいいの! 私そういうの全然気にしない方だから。それにむしろ嬉しかったり?」
「……そう言ってもらえると助かります」
手を離した時、「あっ……」と、名残惜しそうな声が小さな唇からそっともれた。
本当に彼女はワンコっぽい。一颯はくすっと小さく笑った。
実は人間じゃなかった、とこう言われても納得してしまえそうな気がする。
「――、そう言えば他の人達ってどんな感じなんですか?」
ふと好奇心が内に芽生える。
彼女を含む他の面々だって一人暮らしなわけだし、当然自炊しているはず。
だったらきっと料理の腕前もあるだろう。
機会があれば他のメンバーと同企画をすることもあるのだろうか? 一颯が沈思しているとエルトルージェが小さく首を横に振った。
「あ~……こんなこと言うとアレだけど、かすみちゃんとか他の皆も基本お料理は苦手な方だよ」
「え? そうなんですか?」
「うん。一颯ちゃんはもしかするとまだ見てないかもしれないけど、実はお料理企画って前からもやったことがあるんだ。その時は、その……あはは」
詳細が語られることはなく、しかし明後日の方を見やり乾いた笑いをもらす挙措がすべてを物語っていた。
どうやら散々な結果だったらしい……。一颯は口を固く閉ざした。
件の動画は後で確認するとしよう。逆にどんなゲテモノが爆誕したのか、今はその好奇心に強く心が狩られて仕方がない。
「だから皆外食とか、コンビニとかでお弁当買ってきたりとかが多いかなぁ」
「へぇ……」
「――、それじゃあそろそろ準備の方よろしくお願いしまーす!」
「あ、そろそろだよ一颯ちゃん。今日は合同企画だけど、負けないからね!」
「こちらこそよろしくお願いします。全力で挑ませていただきます」
キッチンの前にて二人して立つ。
今回はVtuberとしての素体ではなく、素の己を晒す――晒すと一言にいうが、映るのは腕のみ。
その腕も肘まで覆うグローブを装着するので、身バレする危険性はない。
「――、第5回! ドリプロお料理対決ー! イェーイ! どんどんぱふぱふ~!」
元気いっぱいの前向上の後、矢継ぎ早にコメントが流れていく。
あたたかいコメントが流れる中で、はて。一颯は思わず目を凝らしてしまった。
『今日も始まりましたデスクッキング!』
『今日の犠牲者は新人の子か……』
『新人の子を容赦なく潰していく狼なのに鬼の所業とはこれいかに』
『いぶきちゃん逃げてぇぇぇぇぇっ!』
なんだ、この不穏すぎるコメントは……? 一颯はジッと訝し気に見やった。
料理企画については今日がはじめてではない。
過去の動画がさぞ阿鼻叫喚なものだったにせよ、今もこうコメントをするのは単純に揶揄しているだけの可能性は、なきにしもあらず。
だが、少なくとも把握したコメントには誰一人として、エルトルージェの上達した腕前について称賛を送っていなかった。
なんだか、ものすごく嫌な予感がする……。一颯は胸中で渦巻く不安をぐっと押し殺すように胸をとんと叩いた。
「――、セルフSE、ありがとうございます」
「というわけで、今回もやってきましたお料理対決! 前回もその前も大変好評だったから、今回もやっていきたいと思いっま~す! そして本日は……デデンッ! “
「改めまして、“
「ふっふっふ~。いぶきちゃん。いくらかわいい後輩でも手加減は一切しないよ~? なんてたってエルはこのお料理対決のチャンピオンなんだから!」
「え? そうなんですか?」
一颯は純粋に驚いた。
そんな話、さっきは一度も出てなかったが……。本人が言うのだから、きっとそうなのだろう。
チャンピオンとまで自負する腕前には期待しかなく、しかしさっきの不穏極まりないコメントがどうも脳裏から離れない。
「それじゃあまずはエルから作るからね! これでいぶきちゃんも、おいしさのあまりノックアウトしちゃうんだから」
「楽しみにさせていただきます」
一颯はちらりとコメント欄を見やる。
『ヤメロォォォォォォォォォォッ!!』
『いったい何人の犠牲者を生み出すんだ!』
『作るのはいい。けど食べさせるのはNG!』
『料理という名の生物兵器を生み出す狼』
本当に、大丈夫なんだろうか……? 一颯は頬の筋肉をひくりと釣り上げた。
「――、ん?」
一颯はふと、あるコメントに注視した。
コメントは相変わらず爆速で流れていく。
読み直そうにもたった一秒後にはもう何十、何百という新規コメントが押し寄せ、はるか彼方へと消えてしまう。
それでも一颯がそれに気付いたのは、内容があまりにも異質だったからに他ならない。
『住所特定しました』
『今すぐエルたんのお家行きまーすwww』
『エルたんのお部屋! 良い匂いクンカクンカスーハスーハー』
「なんだ、この異様で気持ちの悪いコメントは……」
一颯は表情をわずかに険しくした。
同じリスナーによる投稿で、当人はおふざけの気持ちなのだろうが、目にして気持ちのいいものじゃない。
誹謗中傷でないにせよ、精神的苦痛を与えたとしてに当たるで最悪訴訟ものだ。
恐らく運営もすでに解決に向けて動いでいるとは思うが……。
「え、えっと。それじゃあ次に……じゃん! ここで生クリームを投入するよー!」
あぁ、どうやらそういうことらしい。一颯は一人静かに納得した。
かすみの時と同様、エルトルージェもネットストーカーによる被害者だった。
ネット上とは言え、内容が内容だけに楽観視できるものじゃない。
例え冗談でももし、本当に特定されていれば……。この恐怖を押し殺し、“エルトルージェ・ヴォーダン”を徹底する姿は尊敬に値する。
一颯は心の中で称賛の拍手を送った。とは言え度重なる恐怖とストレスで、エルトルージェが病んでしまう可能性は十分にある。
ドリームライブプロダクションの一員となったからには、早急に解決する必要がある。
ここはひとつ、肌を脱ぐか……。そう結論を下した一颯は、突如目をぎょっと丸くした。
「な、なんだこの異臭は……!」
鼻腔をつんと刺激する強烈な臭いに、自然と涙が浮かぶ。
はたと周囲を見やれば、いったいどこで調達したのやら。
スタッフ全員の顔には、物々しいガスマスクが着用されていた。
ガスマスク集団に囲まれた中でのライブ配信とは、いささかを通り越し異様でしかない。
それはさておき。
一颯は臭いの元凶を見やると、その顔をさぁっと青白くさせた。
「はい完成ー! エル特製の【キャベツと浅利とごぼうとしいたけと人参のヘルシーミルク鍋~生クリームを添えて~】!」
「はっ?」
『ここからが地獄だぞ……』
『ぎゃぁぁぁぁぁぁっ!』
『今回もなんちゅー生物兵器を作ったんや……』
『え? ミルクって白いよね? 紫……?』
ごぽごぽと煮え立つそれに、美味しそうなどという感想は百歩どころか万歩譲っても抱けない。
おぞましい、ただこれに尽きた。
「どう? おいしそうでしょ!?」
「え、そ、そうですね……独創性あふれる料理だと思います……」
「ふっふっふー。これでもエル頑張って練習したんだからね! それじゃあ、はいいぶきちゃん。どーぞめしあがれ!」
「え? こ、これ俺が食べるんですか?」
「そうだよ? 作った料理はお互いに食べてもらうからね?」
「…………」
一颯は絶句した。
コメント欄が大いに荒れた原因が、今になってようやく理解した。
食べなくても味ぐらいは容易に想像できる。
まずい、だけならいい。気力と演技力でどうにかすればいいだけなのだから。
それこそ生きた蛇やカエルなど、丸焼きにして食した経験もあるし、それで強烈な腹痛に苛まれた経験も少なからずある。
だが、生命に著しい悪影響を及ぼしかねないとなると話は大きく変わってくる。
神様というやつは、本当にロクでもない奴らしい……。一颯は力なくわらった。
「エルが食べさせてあげるね! はい、あーん」
「…………」
問答無用で口元に迫るスプーンを一颯は、さながら親の仇であるかのように凝視した。
食べるしか選択権はないらしい……。一颯は覚悟を決めた。
ゆっくりと開けた口に異物が挿入される気分は言うまでもなく、最悪以外のなにものでもなかった。
吐かなかった自分を、今はただただ褒めてやりたい。一颯はすこぶる本気で思った。
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