第16話
その夜、一颯はとある居酒屋へと立ち寄った。
普段外食をするといっても、こういった居酒屋の類は実は今まで利用した試しがない。
単純に酒がそれほど飲めないというのもあるが、一人で入店する勇気がどうしても入る気が起きなかった。
今回は
一颯は内心で小さく溜息を吐いた。本来だったら行くつもりはさらさらなかった。
今日はいつになくドッと疲れた。
デビューと同時にライブにてオリジナルソロ曲を熱唱すると言う、まさかの事態に肉体は想像してた以上に疲弊している。
今日こそはグッスリと、なんの縛りもなく心地良い安眠が手に入る。そう思っていたのだが……。
「……この面子だと仕方がない、か」
「――、アンタさっきから何をぶつくさ言ってんのよ」
「気にしないでくださいかすみさん。単なる独り言ですので」
「ふ~ん。まぁいいけど、それよりも今日はアンタのデビューとライブ成功のお祝いなんだから、一応主役なんだしもっとシャキッとしなさい」
後半はともかく、前半についてはわざわざ気にする必要なんかないのに……。一颯は力なく、小さく笑った。
本日の成果は、大成功と言ってまず間違いないし、ライブ配信後のSNSやネット掲示板では、今回のライブについて未だに盛り上がり続けている。
42.名無しの視聴者 2023年xx月22日 16:16
今日のライブ最高だった!
新人の“
43.名無しの視聴者 2023年xx月22日 16:43
“
44.名無しの視聴者 2023年xx月22日 17:01
いーからチャンネル登録だ!!
“
45.名無しの視聴者 2023年xx月22日 17:09
おっ……が小さいけど、だがそれがいい(デデンッ!)
でも個人的にはやはり大きい方がwww
掲示板にまさか自分のことが載るなんて……。好き勝手にやっていた無名時代ではまず、これはありえない現象だった。
掲示板の方でも“
未配信のチャンネルにも関わらず、さっき軽く見ただけでもすでに5000人以上ものチャンネル登録者が付いた――かつて無名で最底辺Vtuberだった頃のおよそ20倍というこの数には、さしもの一颯も大いに驚愕した。
最初の滑り出しは、まぁなかなか重畳と言ったところ。一颯はジョッキを満たす麦茶を一気に飲んだ。
「アンタってさ、そう言えばお酒飲まないの?」
そう尋ねるかすみは、手にあるそれを含めると10杯目となる。
そんなにたくさん飲んで大丈夫なのか……? そうは言っても、当の本人は顔を赤くするばかりかけろりとして酔った気配は皆無である。
一颯は小首をはて、とひねった。
人を見かけだけで判断するのは愚の骨頂、なのだがとてもじゃないが、そうは見えなかった。
現実の“
彼女のテーブルだけ、空になったジョッキの量が途方もない。
ここが完全個室の防音対策ばっちりな居酒屋で本当によかった。一颯はそう思った。
「いやぁ、俺実は酒が苦手……というか、飲めないんですよ」
「そうなの? なんかアンタって結構飲めそうな感じしてたんだけど」
「それは完全に偏見ってやつですよ。いやサワー系とか、カシス系だったら辛うじて一杯ぐらいは飲めるんですよ? でもそれがもう限界ですね。二杯目以降になると……完全に潰れます」
「だからアンタ、さっきからお茶ばっかり飲んでたってわけね」
「そういうことです。ですから祝いの場で申し訳ないですが、こいつで勘弁してください」
そう言って、一颯は麦茶を満たすジョッキを軽く上げてみせた。
「でもでも、ご飯だったらいっぱい食べれるよね!? 一颯ちゃんさっきからほとんど食べてないんだもん」
「エルさん……」
「もう、一颯ちゃん呼び方が固いんだってば。エルちゃん! はいふくしょー!」
「え、あ……エ、エルちゃん」
「よろしい~! というわけで一颯ちゃんももっと食べよ食べよっ!」
エルトルージェは、かすみとは真逆によく食べる娘だった。
とにもかくにも、食べる料理が途方もない。
いったいぜんたい、その小柄な体躯のどこに入るのだろうか……。一颯はまじまじと、“エルトルージェ・ヴォーダン”を見やった。
一人だけでざっと5人前はあろう、それだけの量を食したくせにして体系に一切の変化がない。
食べても太らない体質とは、世の女性が聞けば血涙を流して羨ましがること極まりない。
「い、いや俺は俺のペースでゆっくり食べてますから。だから気にしないでください」
「も~もっとたくさん食べないと元気でないよ~? 今日はなんて言ったって、ぜーんぶ社長の奢りだもん。だから遠慮する方が駄目なんだからね? ね、社長!」
「あ~……うん。で、でもちょっと手加減してくれると嬉しいかなぁ……なんて」
最後にか細く乾いた笑いをした
さっきからチラチラと財布に視線を落としたりとで、非常に落ち着きがなかった。
さすがにこの状況の空気を読めないほど、愚鈍じゃない。
それ以前に追加注文するという気がとてもじゃないが起きない。
一颯は小さく笑みだけ返して、麦茶を再び喉へと流した。後でコンビニでも寄ろう……。
「でもでも、いぶやんってば本当にかわいいよね~」
不意に、“
不快感はこれっぽっちもなく、むしろ心地のよさの方が勝る。
いつまで嗅いでいても飽くことがない、それほどいい香りなのに猫よろしくゴロゴロと甘える仕草がすべてを持っていった。
この人、もしかして酔っているのか……!? 一颯は頬の筋肉をひくりと釣り上げた。
りんねの頬だが、ほんのりと赤らんでいて目もとろんとどこか眠そうだった。
「あ~りんねちゃんはお酒大好きだけどすぐ酔っちゃって、それで酔うと誰振り構わず甘えてくるんだよねぇ」
呑気な口調の“
ちまちまと刺身を食べる姿はさながら小動物のようで愛くるしささえある。
だが、今はそれよりもこの先輩をどうにかしてほしい……! 一颯は目をぎょっと丸くした。
唇を突き出したりんねの端正な顔がゆっくりと迫ってくる。
彼女がこれから何をしようとするか、想像するのは容易だ。
「いぶやんはホントにかわいいなぁ。チューしちゃおっと」
「ちょ、何やってるんですかりんねさん! いくら酔ってるからって言っても公共の場でやることじゃあないでしょ!」
「ん~いぶやんもしかして照れてるぅ? あはは~」
う、うざい……。一颯は胸中ですこぶる本気で思った。
「あっはっはっはっは。でも、とっても楽しい仲間達とは思わないかい?」
かすみによって無理矢理引っぺがされた、りんねを見送っていると、不意に
彼の表情は強面であるのに今はとても安らいだ、違和感も威圧感もなく穏やかな
「ぼくはね、本当に君たちとこうして出会えてよかったと心から思うよ。ここにはいないメンバーだって同じさ。そして一颯ちゃん、君とこうして出会ったこともね」
「……正直言って、いきなりDMが来た時は本気で驚きましたけどね」
「君ももうドリームライブプロダクションの仲間だ――これからも一緒に、頑張っていこうね!」
「ぼちぼち、だけど粉骨砕身の精神ばりに頑張らせていただきますよ」
すべては資金面をどうにかするため。
でも、臨時でもいいから
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