第13話

 一颯が事務所を後にした頃には、空はすっかり満天の星に変わっていた。


 雲一つない夜空を見やれば、無数の星がきらきらとその小さいながらも美しく輝いている。


 昼間のような喧騒も徐々に鳴りを潜め、しんとした静寂さがなんとも心地良い。


 今日もグッスリ眠れそうだ。一颯は思った。


 一つだけいつもと異なる点をあげるとすれば、隣には“天現寺てんげんじかすみ”がいるということ。



「ね、ねぇ一颯。周りにアイツはいないわよね?」

「えぇ、少なくとも俺が見た限りじゃいませんね」

「だ、だったらいいんだけど……」



 言葉ではそう口にするものの、その言動に余裕は欠片ほどさえもない。


 表情に関しては、さすがプロと言ったところか……。事務所では決して弱みを見せなかったが、オフになった途端せっかくのかわいらしい顔は恐怖によって険しさを示す。



「……とりあえず、しばらくは俺が付き添いで一緒に帰りますから。だから安心してください」

「……ありがとう」

「同じ事務所の仲間を、先輩を守るのは後輩として当然の役目ですから」

「どうして後輩の役目になるのよ……普通は先輩の役目でしょ、それって」

「先輩も後輩も関係ありませんよ。誰にだって得手不得手はありますし。仲間とかだったらお互いが支え合ってこそナンボ、でしょう?」

「一颯……」

「まぁ、俺からすればまだまだ新人で頼りないでしょうけど……。頼れる部分があるんだったら遠慮なく言ってくださいよ、かすみ先輩」

「アンタに先輩って言われると、なんかむず痒いわね……」



 くすりと、ほんの少し。だが確かにかすみが小さく笑った。


 幾ばくかの余裕は戻ったらしい。一颯もふっと口角を緩める。


 何故か、かすみがジッと不可思議そうな顔で見てきた。


 何か、顔についているのか? 一颯は顔にそっと触れた。特に何かがついているようには思えないのだが……。



「……アンタ、今すっごくいい顔してたわよ」

「え?」

「いや、アンタさっき笑ったじゃない。それなのにどうしてレッスンの時にはできなかったのかなって、ちょっと不思議に思ったのよ」

「それは……どうしてでしょうね」



 結局、レッスン中で自然に笑うことができなかった。


 いくら楽しいことを連想しろ、と言われてもいまいちピンとこなかった。


 これにはさしもの先生も頭をひどく抱えてしまい、申し訳ないことをしたと少なからずこちらとしても思うところがある。


 ライブまでにどうにかできるだろうか……。一颯はうんうんと唸った。どう考えてもできそうにない気がする。



「……まぁいいわ。とりあえずライブ、アンタにも頑張ってもらうんだからね」

「わかっていますよ。とりあえず全力で挑ませてもらいます」

「そっ。だったらいいわ――それよりもホラ、早く帰りましょう」

「そうですね」



 時刻はもうすぐで午後9時になろうとしている。


 明日も早い。特にライブ公演も近いのでスケジュールはなかなか過密だ。


 そういう意味だと、自分のスケジュールはとてもじゃないが新人にさせるものじゃない。


 なんなんだこのハードスケジュールは。明らかにおかしいだろ! 一颯は胸中にて愚痴を吐いた。


 ハードスケジュールの上で自身のチャンネルで配信もするかすみ達のバイタリティーが、今は少しだけ尊敬した。



「――、ん?」


 一颯ははたと周囲を見やった。


 後少しでマンションに着く。


 すでに視界には遠くにある外観を捉え、距離にすればもう500mとない。


 町中から外れた場所にあるので人の出入りはほぼ皆無となった。


 ここにいるのは自分とかすみの、たった二人のみ。


 そこに新たな人影が追加された。


 もっとも彼の場合は、招かれざる客と言って等しい。一颯はじろりとその男を睨んだ。


「ひっ!」と、短い悲鳴をもらすかすみの表情はたちまち、恐怖の感情いろに支配される。


 がたがたと小刻みに震えるかすみを、そっと後ろに隠して男と対峙した。


 まさか予想していたよりもずっと早くにやってくるなんて……。一颯は鼻で一笑に伏した。


 男の顔は夜であるにも関わらず、はっきりと視認できるぐらい紅潮していた。


 照れ隠しであれば気持ち悪いことこの上ないが、今回の場合は明確な殺意と怒りである。


 その原因についてよく知っているから、嘲笑せずにはいられない。



「随分とお怒りのようだな」

「お、お、お前だな! お前がやったんだな!?」

「さぁ? いったいなんのことを言ってるんだ? 俺にはさっぱりわからないな」

「ふふふ、ふざけるな! お前のせいで会社を首になったんだ! おまけにSNSでも拡散されて……何もかもおしまいだ!」

「それはご愁傷様で」



 男が怒る原因は、すべてこちらが仕組んだこと。


 やったこともそこまで特別じゃない、単純に男と関連性のある各所へ匿名で情報をリークしただけ。


 SNSについては予想外ではあったが、恐らく勤め先の誰かがやったのだろう。


 いずれにせよ、これで男の愚行もおしまいだ。一颯は思った。



「なんの話か俺にはさっぱりだが……だが、これまで彼女に対する行いは決して褒められたものじゃない。だから罰が下ったんだよ、せいぜい反省するんだな」

「ううう、うるさい! もも、もとはと言えばそこの女がいけないんだ! オレのことを誘惑したくせに、オレの心を弄んだその女がすべて悪いんだ!」

「ここにきて責任転嫁か……まったく、思っていた以上に見下げ果てたゲス野郎だな」

「黙れ黙れ黙れ! こ、こうなったらここで殺してやる!」



 次の瞬間、男の右手にぎらりと光るものがその姿を見せた。



「コンバットナイフ……光物を抜いたってことは、もう冗談でしたじゃ済まされないぞ?」

「うるさいうるさいうるさい! ま、まずはお前から殺してやる!」



 男がどかどかと地を蹴った。


 コンバットナイフの刃長はおよそ16cmとやや長め。


 月光をたっぷりと浴びて輝く白刃の先端は、まっすぐ腹部目掛け襲ってくる。


 刺突でもされればひとたまりもないし、ナイフという凶器を前にして大抵の人間は恐怖で思考能力が著しく低下してしまう。


 ナイフがどういったものか、経験がなくともどうなるかを想像するのは極めて容易なことだ。


 だから真っ先に最悪の結末を想定して、結果現実のものへとしてしまう。


 普通の人間であったならば、そうなるのも致し方ないが……。


生憎と、戌守一颯いぬがみいぶきは普通に部類されない。



「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

「い、一颯危ない!」

「ご心配なく、この程度で俺は死にませんから」



 そう言うや否や、一颯の行動は極めて迅速だった。


 蹴り飛ばしたコンバットナイフが遥か遠くの方で落ちた。


 ほどなくして、さながら家畜を絞め殺すようなぐぐもった奇声が夜の静けさの中こだました。


 男の右手は、本来の可動域では絶対に不可能な方向へぐにゃりとあらぬ方へ曲がっている。



「オ、オレの右手がぁぁぁぁぁぁ……!」

「右手が折れたぐらいで何を泣き言を言ってるんだ? お前はさっき、こっちを刺し殺そうとしただろ? 命を奪おうとしたんだ、逆に自分が返り討ちにあうかもしれないってことぐらい、想定できただろ?」

「な、な、なんなんだよぉお前はぁ……」



 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔は、目にも耳にも大変汚らわしいし見るに堪えない。


 散々非道な行為をしておきながら、まるでこっちが悪人みたいじゃないか。


 一颯は大きな溜息を吐いた。わざわざ男の問い掛けに答える義理などないが……。



「――、秘密結社ドリーマー」

「へ……?」

「法で裁くことができない悪を裁く漆黒の執行人エクスキューショナー

「え、ア、アンタそれって……」

「お前はこれまでに数多くの罪を犯した。その罪を今、償う時だ」



 一颯は男の顔面に鋭い蹴りを叩き込んだ。


 ぐしゃり、というその不快な音は男の鼻の骨が折れたという証拠。


 手応えあり、が命まで奪うつもりは毛頭ない。


 何故ならこの男には法という裁きがこれより下るのだから。


 どしゃり、と地に崩れた男を横目に一颯は裾を叩いた。

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