第10話

 翌朝、空がまだ東雲色の頃一颯はキッチンにいた。


 いつもだったら日課のランニングをするところだが、今日は生憎と客人がいる。


 所属してまだ間もない新人に頼るぐらい、その客人はひどく怯えていた。


 今はくぅくぅと、わずかに開けた扉の隙間から見える心地良い寝息と共に安らかな寝顔を浮かべている。一颯はそっと扉を閉じた。


 つっけんどんな言動である彼女も、眠れば天使のように大変かわいらしい。とは言えいつまでもジッと見つめるわけにもいくまい。



「起こすのは後でもいいか……」



 時間はまだたっぷりとある。一颯はキッチンに立った。


 いつもなら簡単に済ませるところだが、客人の手前、質素すぎるのもいささかどうかと思う。


 豪勢な、とまではいかなくともそこそこのクオリティーであれば文句もあるまい。


 不意に、ポケットから小さな電子音が鳴り響いた。


 こんな朝っぱらからいったい誰だ……? 画面を見やってすぐに、コールボタンを押した。


 非通知相手なら無視を決め込んでいたが、知り合いであれば話は別。


 特に電話相手はこっちから用があって連絡した。無視をするなど言語道断だ。



「――、もしもし?」

《おはよう。こんな朝早くから悪いね一颯》



 受話器越しにそう言った声は優しくて、どこか落ち着いた雰囲気をかもし出す。



「いや、こっちからお願いしたんだ。それにこの時間ならもうとっくに起きてるから気にしないでくれ」

《さすがだね。それじゃあ早速ビジネスの件だけど――君が依頼した例のストーカー、身元が判明したよ? 今からそっちにメールを送るから確認しておいてくれ》



 一通のメールが届いた。これが恐らく件のデータだろう。中身は、言うまでもない。


 かすみのストーカーに関する、要するに個人情報である。


 もっとも恐ろしいのはその中身で、確認する前からきっとあらゆる情報がぎっしり詰まっているのは容易に想像がついた。


 この男だけは、絶対に敵に回したくない……。一颯はすこぶる本気でそう思った。



「――、さっすがこの国一の凄腕の情報屋・・・。仕事が早くて本当に助かるよ」

《ダンナには色々と世話になっているからね。それと、報酬の方だけどゆっくりと返済してくれればいいよ。これもつい最近知ったんだけど、あの大手事務所ドリームライブプロダクションに所属したんだって?》

「……本当に情報が早いな。どんな方法で知ったんだ?」



 これについては、本当に前々から気になって仕方がなかった。


 Vtuberとして活動していることは、この男も最初ハナから知っている。


 だが、ドリームライブプロダクションに所属したことはまだどこにも公表していないのだが……? 一颯ははて、と小首をひねった。



《ふふっ、それは企業秘密ってやつさ――ところでダンナ、実は耳寄りな情報が手に入ったんだけど……それはまた別の機会に教えるとするよ》

「――、? なんだかよくわからないけど、今回は助かったよ。それじゃあ」



 あの男のことだから、きっと新しい住居もとっくの昔に把握しているに違いない。一颯はハッ、と鼻で一笑に伏した。


 なにはともあれ、欲しい情報は手に入った。



「さてと……後はこの情報をもとに、どうやって立ち回るかだな」



 ふむ、と一颯は沈思した。直接手を下すことは、実に容易い。


 だが、それではきっと解決しないことが昨晩で証明されてしまった以上は、別の方向性でアプローチを仕掛ける必要がある。


 物理的な意味合いでこの世から抹消でもしない限り、ストーカーが改心することは決してないだろうから。



「最悪のケースは、かすみが殺されるかもしれないってことだ。それに他のVtuberの面々もいる……彼女達にも危害が及ばないっていう保証もない」



 早急に対処すべきだ。一颯は判断した。



「――、なんかいい匂い……」

「あ、おはようござい……」



 一颯は唖然とした。当事者は未だ微睡の中にいるらしく、言動にも覇気がまるでない。


 とろんとした目で大きな欠伸をこぼす姿は、いつもと比較してなんだか愛くるしい。


 無防備な姿を晒す辺り、ストーカーへの恐怖は薄れているようだ。


 一颯はホッと安堵した。とはいえ、いくらかわいくても言及すべきことがある。



「な、なんて恰好してるんですか! かすみさん!」

「ふぇ? 何が?」

「な、何がって……服乱れてるし、お腹だって見えちゃってます!」

「えー? いいじゃない別にぃ。どうせここにはアンタと私しかいないんだし」

「いや、こっちが気にしますから!」

「……なに、アンタもしかして。そういうの気にしたりするの? 女同士なのに、気にする必要ないじゃない」

「あ……」



 一颯はハッとした。自分が女として偽っていることを、すっかり失念していた。


 同性なのだから、寧ろ恥ずかしがる方が違和感が生まれる。


 幸い気付かれた様子はなく、のそのそと恐らくはトイレだろう、向かっていく後姿にひっそりと安堵の溜息を吐いた。



「――、まだ眠い……」

「いや、まだ眠いんでしたらもう少し寝ててもよかったんですよ?」

「そういうわけにはいかないでしょ? それに二度寝すると私、次がなかなか起きれなくなるのよ」

「はぁ、そういうもんなんですね」

「そういうことよ――ところで、わざわざご飯まで用意してくれたの?」

「あ、はい。やっぱり朝はしっかりと食べないといけませんからね」



 本日の朝食は――朝にしては随分豪勢にしたと我ながら思う。


 ソーセージに目玉焼き、サラダにトースト、後はコーヒー……いつもだったら、絶対にこれだけ食べない。


 なんならどっちかと言うと朝は米と味噌汁派だ。



「へぇ、割とちゃんと作るのね」

「そりゃあお客人がいるのに手抜きの朝食は出せないですから」

「ふ~ん、アンタって意外とマメな性格なのね。そんなの気にしたくていいのに」

「俺が気にするんですよ――それよりも、冷めないうちにどうぞ」

「そうね。迷惑ばっかりかけてその、悪いわね――いただきます」



 かすみに続いて「いただきます」と、一颯も朝食にありついた。


 特に会話はなく、黙々とした時間だけが流れていく。


 別段この状況に不満はなかった。


 前々から食事は一人っきりだったし、誰かと食事をした経験もほとんどない。


 だから一人での食事にすっかりと慣れてしまったから、かすみとの食事が静かでもさして気にならない。



「――、ねぇ」



 不意に、かすみが口を切った。



「なんか喋ってよ」

「え?」

「私、誰かと食事の時に会話がないとなんか落ち着かないのよ……!」

「え~そんなこと言われても……」

「なんでもいいから! 食事は楽しくしなきゃ駄目ってお母さんが言ってたから!」

「……やれやれ」



 今日の朝食は生まれてはじめて賑やかになりそうだ……。一颯は小さく溜息を吐いた。

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