第9話★
その夜、一颯が住む一室へと足を運ぶ“
彼女への印象ははっきりと言ってまだ、心許せる仲間とはとてもじゃないが言えない。
最初のコンタクトがそもそも最悪で、あんな煽りかつ圧倒的実力の差をあぁも見せつけられれば、自然と対抗心の一つや二つぐらい普通に湧く。
あの子だけには絶対に負けられない……! かすみは強く拳を握った。
仲間ではあるものの、どっちかと言えばライバルの方がしっくりくる相手の家に向かったのは、社長自らの命令だ。
忘れた書類があるからこれを届けてほしい、という要するにおつかいである。
同じマンションにいるから、届けるのは難しい話じゃない。
はいっと渡すだけでいい、たったこれだけで面倒なおつかいは即終了だ。
「――、こんな時間にどうしたんですか?」
扉からひょっこりと顔を出した住人は、ひどく訝し気な視線でこちらを見やる。
私だって本当ならこんな面倒なことしたくない……。かすみはグッとこらえた。
私怨こそあるが、それを職場にまで露わにする気は更々ないし、プロのVtuberとして失格だ。
「これ、社長がアンタに忘れたからって届けるようにって言われたのよ」
「社長が? これは?」
「今後のスケジュールとか契約書の類云々、後はキャラクターの設定とかいろいろよ」
「そうですか……わざわざ届けてくださり、ありがとうございます」
「……それじゃあ。私もう行くから」
「えぇ、おやすみなさい」
あっさりとおつかいは終わった。
後は自宅でゆっくりのんびりとすごすだけ。
今日は特に配信の予定もなく、久しぶりに好きなことに没頭することができる。
かすみはふと、立ち止まった。何気なく外を見てしまった。
また、あいつがいる……! 一颯が注意したからと言っていたから、つい安心しきっていた。
「な、なんであいつがいるのよ……!」
かすみは再び、一颯の部屋へと向かった。
チャイムを鳴らす余裕は恐怖でなくなり、ドアをけたたましく叩いてしまったがどうでもよかった。
今は早く、安全な場所にいたい……!
「ど、どうしたんですかいったい――」
「おねがい! 早く家の中に入れて……!」
「えっ、ちょ……!」
許可を求めている暇はない、とにもかくにもあのストーカー男の視線から少しでも逃げたかった。
リビングの片隅で静かに座り込み、朝になるのをひたすら祈る。
そうするしかできない自分が、今は激しく悔しくて仕方がなかった。
いっそのこと、直接面と向かって言ってやった方がいいかも……? 多分だけど、だめ。
出ていっても自分がどうこうできる姿が思い浮かばない。
かすみは深い溜息を吐くと共に、顔を覆った。
どうしてこんな目に遭うの……? 言いようのない怒りと不満が沸々と胸中に湧くのを感じざるを得ない。
「――、例のストーカーですか?」
「……ッ!」
どうしてわかったのだろう……。恐らくこの質問は、愚問に等しい。かすみはそう思った。
うまく形容する言葉が思いつかない、けど普通の人にはない何かが彼女にはある。かすみはそう思った。
いきなりやってきてすぐに事情を把握した推察力は、なかなか侮れない。
視線の先にいる一颯は、どこか呆れたような怒ったような表情をしている。
「あのストーカー、あれだけ釘を刺したのにまだ来るなんて……ある意味ガッツあるな」
「か、感心してる場合じゃないでしょ!? なんなのよ、あいつ……気持ち悪い」
「それについては、同意見です。とりあえず俺が次はちょっときつめの灸を据えてきますよ」
「ま、待って……!」
かすみは一颯の手を強く掴んだ。
きっと、一颯だったらあんなストーカーぐらいどうってことないのだろう。
元陸上部とのたまってただけあって脚力については、信じられないぐらい凄い。
超人的って言葉はきっと、彼女のようなことを差すに違いない。
でも、今は一人になりたくなかった。
誰かが傍にいてほしいという気持ちが、情けないとはよくよくわかっているし、迷惑を掛けていることも重々理解はしている。
だけど、今夜だけは一人になりたくなかった。
「お願いだから、今は傍にいてくれない……?」
「……俺でよかったら、ここにいますよ」
「……ありがと」
一颯は、まだ心許せるだけの相手じゃない。
許せないけど、今この時だけは誰よりもずっと頼りがいがある。
自分が先輩で後輩をぐいぐいと引っ張っていかないといけないのに……。かすみは胸中で自嘲気味に小さく笑った。
こんな情けない姿を晒した先輩を、先輩と思いたくないだろう。
「とりあえず、何かあったかい飲み物でも用意します。あったかいものでも飲んだら少しは落ち着くでしょう」
「……悪いわね、いきなり押し掛けたのに」
「気にしてませんよ。誰だってストーカーは怖いし、それに頼られるのならこちらもできる限り応えるまで、ですよ」
「……アンタ、意外と優しいのね」
つい無意識にそう口に出していた。
結構つっけんどんな態度取っていた方だし、それはきっと一颯にも伝わっていたはず。
普通だったら、そんな相手のお願いをわざわざ聞いたりしない。
嫌な顔一つせず気遣いまでしっかりできる……それがきっと、
やがてマグカップが差し出される。
中を満たすココアは、ほかほかとしてとてもあたたかい。
「怖がってる人を見て無慈悲に追い出そうとする輩はまずいませんよ」
「……それも、そうね」
「……とりあえず、今日は部屋泊っていきますか?」
「え?」
かすみは素っ頓狂な声をもらした。
初対面でないにせよ、こうもあっさりと他人を泊めることに一颯はなんらためらいがない。
同じ女同士だというのに、なんだか胸が熱い……。彼女の言動に女の子っぽさはまったくなくて、どっちかと言うと頼れる男の子っぽい。
そんな印象がどうしても否めない。
胸については、きっと散々苦労したんだろうと思う。かすみは一颯の胸部をジッと憐れむように見やった。
とりあえず自分より小さい相手がいてホッと、心に優越感が満ちる。
「……どうかしたんですか?」
「え? いや、その……! な、なんでもないわ」
「はぁ……そうですか」
少しばかりジロジロと見すぎてしまった。かすみは反省した。
でも、自分よりも小さい娘がいるっていうのは、なかなか嬉しかったりする。
「……そうね。今日はお願いしようかしら」
「じゃあそっちの部屋を使ってください。俺は少しばっかりやることがありますので」
「わかったわ……って、こっちって客室じゃないの?」
「いや、そっちは俺の私室ですよ」
「え? こ、これが……私室?」
一颯の私室は、思った以上に何もなかった。
部屋は全部で三つあって、もう一つが配信部屋だと仮定すればもっと私室は飾ってもいいぐらいだ。
余談ではあるが、かすみの私室はかわいいをコンセプトにしている。
配信内ではシンプルイズベスト、などとのたまっておきながら実際のところは、ぬいぐるみだらけである。
そんな自室と比較対象にすらならない。
これじゃあ、あまりにも殺風景すぎるじゃない。改めてかすみは室内を
ベッドに机とタンスのみと、必要最低限しかない光景はなんだか異様な空気をひしひしと放っている。
「機材とかパソコンとかは、全部もう一つの部屋に置いてありますから。必然的にそうなっちゃっただけですよ」
「そ、そうなのね……」
「それじゃあ、俺はもう少し起きていますので。もし何かあったらすぐに言ってください――それと、とりあえず明日社長に相談しましょう。すでにしてるでしょうけど、悪化している以上黙っておく道理はありませんしね」
「……そうね。そうするわ」
「それじゃあ――あぁ、あと念のため。私室は出入り自由ですけど、配信部屋ともう一つの部屋は俺の許可なく絶対に入らないでくださいね?」
「言われなくても入らないわよ」
「じゃあ、また明日。予備の歯ブラシとかは洗面台の棚に置いてますので、適当に開けちゃってくださいね」
ぱたんと扉を閉じて、ベッドの方を見やる。
「……今日はもう寝よう」
お風呂は明日の朝にでも入ればいい。
今日はいろいろとドっと疲れた……。かすみはそっと目を閉じた。
「――、あ、もしもし? あぁ、俺だ。実はちょっと依頼したいことがあるんだけどさ……えっと、支払いはツケにしてもらってもいいか?」
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